2・合衆国独立 独立戦争へ |
強制諸法の衝撃 |
緊張状態が続く中、英本国は財政危機にある東インド会社の救済手段として、同社に大量に余っていた茶をアメリカで売りさばくことを考えた。この茶が密輸茶よりも安価となるように本国は茶税に特別な手当てを加えた。植民地人は茶の値段よりも本国政府が一方的に利益の再配分を行うことに強く反発したのであった。植民地の港では民衆の反対暴動がおこり、茶を荷揚げできず帰港してゆく船もあった。ボストンでは荷揚げを待っていた船に対して暴力事件が起こった。1773年末サミュエル・アダムス指導のもと、先住民に仮装した一団が船に乗り込み、積み荷の茶を海に投棄した「ボストン茶会事件」が起こった。この知らせが伝わると他の植民地でも茶の投棄事件が相次いだ。 本国政府はこの事件に対して著しく態度を硬化させ、翌1777年強制諸法と呼ばれる一連の取締り法令を制定した。茶会事件の厳正な捜査と処罰が実行されるまで港を閉鎖するボストン港閉鎖法、マサチューセッツ植民地議会上院である参議会の議員を間接選挙制から任命制に変え、タウンミーティングの開催を制限するマサチューセッツ統治法、駐留英軍への物資供給・宿営を義務付ける宿営法などであった。これらの措置は本国と植民地との間で紛糾していた諸問題を一気に強権的に解決しようとするものであった。植民地側はこの措置を決定的な事態の転換として受け止めた。特にマサチューセッツにとっては国王特許状に規定されている根本的な統治体制に変更が加えられた以上、今や自然状態にあるとの考え方まで登場してきた。独立にはまだ強いためらいがあったものの、駐留英軍との武力衝突が来るべきものとして各タウンで武器弾薬を購入し貯蔵する動きが拡がった。 |
革命化と全国化 |
強制諸法を巡る植民地議会と総督の対立から多くの植民地で臨時の革命政府が発足した。マサチューセッツなどで議会が強制諸法の非難を論議しようとすると総督は直ちに解散を命じた。それに対して、代表たちはおとなしく解散することなく、自分たちで集まって非正規の植民地会議を組織した。さらに1774年9月、強制諸法による問題を諸植民地に共通する重大問題と受け止めて、ジョージアを除く12の植民地から代表が集まり、フィラデルフィアで第一回大陸会議が開催された。会議は独立や武力対決を回避し、以前の本国植民地関係の回復を請願する「権利と宣言の決議」を採択した。同時に、大陸不買同盟を結成して、共同のボイコットで本国に圧力をかけることを決めた。以上のような非正規の権力体の創造は、イギリス臣民に固有のアングロ・サクソン的自由と権利の回復を主張し、抵抗を目指していた反英運動の変質を示すものであった。独立を忌避する主観的な認識は別として、植民地の運動は革命の段階に入ったのである。 |
開戦 |
革命を決定づけたのが本国との戦争開始であり、植民地連合正規軍としての大陸軍創設であった。1775年4月18日、ボストン駐留イギリス軍はコンコードが武器弾薬を貯蔵しているとの情報を得て、捜査押収を目指して700名の部隊を派遣した。翌朝レキシントンの小競り合いでアメリカ側最初の流血が起こった。イギリス軍はコンコードに進み、民兵と対峙、戦闘に入りボストンに後退した。レキシントン・コンコードの戦いを受けて、第二回大陸会議が開催され、諸植民地が一致して戦うための正規軍組織として大陸軍が編成された。総司令官にはヴァージニアのプランター、民兵隊指揮者のジョージ・ワシントンが任命され、直ちに彼は民兵隊が包囲中のボストンに赴いた。6月にはボストンの北で、バンカーヒルの戦いが起こり、イギリス軍がアメリカ側陣地を攻撃し占領に成功したが、昌平の損害はアメリカ側の倍に上った。 これ以後、世界帝国の覇権国、イギリスとの戦争は、アメリカ側に厳しい負担を課すことになった。諸植民地は重い負担に耐え、戦争遂行・指導を効率的に行うために、従来全く存在しなかった集権的中央組織を創設、運営していくことになった。効率的な中央政府支配に強く抵抗することで始まった諸植民地の運動は、新たに自分たちが創造する中央政府を公権力としていかに公正かつ効率的なものにするか模索してゆくのであった。 本国との和解を願っていた植民地人も、戦争の拡大、戦局の推移のなかで認識を改めていった。1775年8月に国王ジョージ3世は「反乱の宣言」を発し、10月にはヘッセン傭兵隊の投入、そして全アメリカ海域の海上封鎖を宣言した。もはや以前の状態への復帰は不可能で、本国に屈服するか勝利するかの選択肢しかなかった。 その頃、独立をためらわせていた君主制の問題を明快に論じたのが、1776年1月に公刊されたトマス・ペインの「コモン・センス」であった。彼は本国で一介の職人ながら鋭い論鋒をふるい、フランクリンとの縁でフィラデルフィアに来たばかりで、アメリカ人のためらいを不思議とした。本国の立憲君主制は政治的安定の推進要素ではなく阻害要素であり、法に基づく共和政体こそ公正な政治秩序であるとペインは主張した。この本は20万分以上売れ広く読まれて植民地人の考え方を変え、本国からの独立、君主政体の否定に踏み切るのに影響を与えたのだ。 |