2・合衆国独立
本国への反発

    反英運動の発生
アメリカではフレンチ・アンド・インディアン戦争(1754~63年)と呼ばれた7年戦争の結果、イギリスは北アメリカからフランス勢力を駆逐しカナダを獲得した。その広大な領域と先住民、カトリックのフランス人を含む多様な臣民を支配する必要からイギリス政府は帝国再編を断行した。その中心は、帝国の統治機構を整備し財政負担を現地からの税収で賄うことであった。まず1763年本国政府は「国王の宣言」を発して、大西洋に流れ込む分水嶺より西の地方で植民地人の土地取得を禁じた。その目的は、この地方を先住民の保留地とし、そこにインディアン管理局を設けて植民地人と先住民との紛争を抑える事、残留したフランス人の生活を保護することであった。そのために、1万人ほどの軍隊を在駐させようとした。しかし実際には植民地人の西方入植が進み、境界線を大幅に西に移動せざるを得なかった。
次いで、帝国維持の財政負担を植民地人に分担させる問題があった。本国が注目したのがラム酒原料などの糖蜜・砂糖の関税収入であった。当時禁止的高関税であったために、英領以外の西インド産糖蜜の輸入では税関官吏まで巻き込んだ密貿易が横行していた。そこで本国政府は輸入関税を半額に引き下げ厳格に徴収することで、財政収入を上げようとした。これが1764年の砂糖法である。本国政府は密輸取り締まり、関税徴収を効率的に行う組織も整えた。任命された税関役人は代人の派遣が禁じられ、本人が取り締まりに責任を持つ体制に改め、密輸船の捜査強化に海軍の艦艇が増派された。さらに密輸事件では陪審で無実となる例が多いため、密輸関連の裁判を陪審によらずに審理する海事裁判所で行うこととした。
    植民地側の強い反発
1765年本国政府は印紙税法を制定し、植民地での公文書、契約文書、新聞、出版物等に課税し、印紙の形で納税させることとした。本国民がすでに負担している印紙税に植民地人が反対運動を起こすなど本国議会は予想もしていなかった。一方植民地側は強く反発した。印紙使用の確認には本国政府任命の印紙販売官が市民の日常生活にまで入り込み、政府権力が臣民の財産を脅かす危険を感じ取ったのである。ここに、近代的公権力による効率的な統治を実現しようとする英本国と権力の専制化を厳しく警戒するアングロ・サクソンの伝統を守ろうとする植民地との対立が決定的となった。
印紙税法は遠く本国で議決され執行も半年以上先であったため、最初の反対運動は同法反対の決議や廃止の請願を行うことであった。ヴァジニア植民地議会ではパトリック・ヘンリーの指導で反対決議が可決され、これに倣う植民地が出てきた。この盛り上がりを背景に9つの植民地から代表が集まって、印紙税法の不当を訴え廃止を請願する印紙税法会議が開催された。これは英領アメリカ植民地が連合して行動した最初の組織的活動となった。植民地側の論拠は「代表なければ課税なし」という伝統的理念でもあった。
ボストンをはじめ各地で印紙販売官予定者の人物に対して圧力がかけられた。人形をつるして焼くシンボリックな行為から、販売官や判事、税関吏への脅迫、家宅の打ち壊しに至る直接行動が行われた。そこで実力を提供したのは一般民衆であり、彼らの暴走を恐れて植民地地元の指導者たちは「自由の息子たち」という組織を結成して、運動の方向付けに努めた。さらにイギリス製品のボイコットによって反対の強い決意を本国に伝えようとした。その結果本国との貿易は大幅に減少し、本国側で印紙税撤廃の要求が高まった。暴力を含めて強い反対運動の経験を共有したのが、のちに独立13州となる植民地であった。カナダなどと違って、そこでは印紙の販売が不可能となり、通関や裁判の手続きが進められず社会不安が増大していった。結局、本国議会は翌66年3月印紙税法を撤廃した。だが一方で、宣言法を発して公権力を行使して帝国の繁栄をはかる正当性を宣言した。
    植民地側の独自な組織づくり
本国議会は1767年新たにタウンゼント諸法と呼ばれる一連の法律を制定して、財政収入を上げ効率的な公権力支配を実現しようとした。これはガラス、鉛、塗料、紙、茶などどうしても必要な日用品に輸入税をかけて収入を上げ、その一部を財源として総督や判事など官吏の給与に宛てようとするものであった。またアメリカ税関管理局を設置し海事裁判所を強化して、関税の効率的で厳格な収入の体制を整備した。これに対しても植民地人は強く反対した。ジョン・ディキソンのパンフレット「ペンシルヴァニアの一農夫の手紙」に代表される植民地側の主張では、通商規制ではない収入のための関税は憲法違反であるとした。サミュエル・アダムス主導のもとでマサチューセッツ議会は68年回状を諸植民地に送り反対運動での協同を呼び掛けた。今回もボイコット運動が盛り上がり、税収を挙げることが不可能となったため、1770年本国は茶の条項を残して輸入税を撤廃した。
これによって反英運動は一時的に終息したものの、70年にはボストン虐殺事件が起こり、駐留イギリス兵がボストンの一般民との衝突で発砲し数名の死者を出した。72年には英巡視船ギャスピー号が難破したのを、沿岸のロード・アイランド住民が救助せずに焼き討ちしてしまう事件があった。同年にはサミュエル・アダムスの指導でボストンが通信連絡委員会を設立したのをはじめ、他のタウン、植民地にも同様な組織が設立されていった。帝国の統治機構とは別個に、植民地独自のネットワークが作り上げられていった。





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