3・19世紀のアメリカ
自営農地法制定

    土地先取得権法
合衆国政府は1785年公有地法を制定し、独立革命で手に入れたアパラチア山脈以西のミシシッピ川流域に至る広大な土地を順次売却し、これを新政府の主要財源にすることを決定した。具体的には、政府が測量して東西南北に走る基線を定め、これに沿って6マイル四方の「タウンシップ」を設定し、さらにこれを各640エーカーの36区画に分けて競売することになった。1エーカーの最低価格は1ドルと決められた。しかしこの制度の下では、開発可能な優良な土地は土地投機業者に買い占められ、多くの入植農民は奥地の競売前の公有地に無断定住することとなった。その後各地で、無断定住者と競売後この土地の地権を得た人々との間に紛争が続発した。
その結果、1841年の土地先取得権法が制定され、無断定住者は160エーカーの土地を1エーカー1ドル25セントの最低価格で、優先的に連邦政府からっ購入する権利を保証された。公有地政策の目的が歳入確保から内陸開発促進に向けて一歩前進した。しかし優遇政策は農民だけでなく、鉄道や運河企業にも与えられた。しかも貧しい無断定住者たちにとって払い下げ時点での土地購入は容易ではなかった。農地を巡る紛争は西部だけでなく、ニューヨーク州のハドソン川流域や州西部のエリー運河沿線地域でも起こり、大規模な地代不払い運動に対して1844年州知事が州兵を動員する事件も起こった。同年、開拓農民に西部の公有地を開放するための全国改革協会が、ニューヨーク市のある労働運動の指導者たちによって設立された。さらに1848年選挙では、奴隷制拡大に反対する自由土地党がはじめて自営農地法の制定を政治綱領に掲げた。
    リンカーン
その後リンカーンの共和党がこの北部全体の運動の高まりに応えて、1860年選挙の政治綱領の一つに自営農地法制定を加えた。こうして南北戦争中の1862年に自営農地法が制定され、160エーカーの公有地が5年間定住・開墾した後に小額の手数料で取得できるようになった。しかし同じ年に大陸横断鉄道計画に対しても莫大な土地を無料で供与する法律が制定された。1862年から1904年までに処分された約6億エーカーの合衆国公有地のうち、無料で処分された公有地は約1億5千万エーカーに過ぎなかった。したがって南北戦争後の大半の入植農民は依然として資本主義的な自由市場で農地を買い取ったことになる。しかも彼らはしばしば土地投機業者や鉄道会社を介し、重い借金を背負ってその土地を手に入れた。このような事実が、南北戦争後の中西部における爆発的な農民運動の歴史的前提となったのである。







戻る