1・イギリス領13植民地の成立と展開
新大陸発見

    「アメリカ」発見
1492年、スペインの支援を受けたイタリア人クリストファー・コロンブスによる新大陸の発見は、あまりにも有名な歴史的事件である。だがコロンブスは、自らが到達した地をアジアの一部(インディアス)と信じ、そこに住む人々をインディオ(インディアン)と呼んだ。そして終生、その考えを変えることはなかった。
一方、その土地が新大陸であることを「発見」し、航海記を著したもう一人のイタリア人、アメリゴ・ヴェスブッチは、広大な大陸に自らの名を刻み込むことになった。彼の著作を目にした学者ヴァルトゼーミュラーが1507年に発行した「世界誌入門」のなかで、新大陸にアメリゴのラテン語の女性形「アメリカ」の名を冠し、これが広く受け入れられたのである。かくしてヨーロッパ人の経験と認識の上に、新大陸アメリカは敢然と立ち現れた。
もっとも、ヨーロッパ人の発見以前に、すでにこの大陸にはモンゴロイドに属する人々が住み着いていた。さらに彼ら先住民も、2万年ないし4万年前までにさかのぼれば、当時陸続きだったベーリング海峡を渡ってシベリアからやってきた人々である。つまり、アメリカ大陸で人類が誕生した形跡はなく、この大陸は最初から移動する人々を受け入れる役割を演じていたともいえる。氷河期が終わり、水位が上がって陸橋が水没したとき、新旧二つの大陸は互いに閉ざされた。独自の生態系を形作り、独自の歴史を刻み始めたのである。
封印されたこの新大陸を訪れたヨーロッパ人は、実はコロンブスが最初ではなかった。さらに400年以上も前に、ヴァイキングがすでにこの地にたどり着いていたとの説が有力である。だがその記憶は、その後のヨーロッパ人の歩みにとって大きな意味を持つことなく、歴史の闇の中に埋もれてしまった。
コロンブスが新大陸を目にした最初のヨーロッパ人でなかったにせよ、また、誤った自らの認識にこだわり続けたにしても、彼が演じた歴史的役割の大きさは否定すべきではない。近代アメリカの歴史、そして近代世界史は、文字通り彼の航海によって開かれたのである。封印は破られ、孤立していた二つの世界は驚くべき勢いで交流を開始したのである。
    「コロンブスの交換」
トマトのないイタリア料理、ジャガイモのないドイツ料理、これらを想像できるだろうか?しかし中世ヨーロッパには、これらの食材は存在してなかった。タバコを吹かす人も当時はいなかった。なぜならこれらはすべて新大陸原産だからである。逆に、馬を持たない平原インディアンの姿は想像できるだろうか?移動しつつバッファローを狩る彼らの生活スタイルは、スペイン人がヨーロッパから新大陸に持ち込んだ馬なしに成立しえなかった。動植物ばかりではなく、ヒト、モノ、情報、そして細菌までもが、この壮大な交流に加わった。先住民人口を著しく減少させた最大の要因として、ヨーロッパ人がもたらした天然痘、はしか、インフルエンザなどの伝染病が指摘されており、逆に新大陸の風土病だった梅毒は、やがてヨーロッパ中を席巻することになる。このようにマクロからミクロまで、あらゆるレベルで生じた新旧両世界の生態系の交流を「コロンブスの交換」という。大西洋はもはや両世界を隔てる障害ではなく、むしろ両者を結びつけるハイウェイとして機能し始めたのである。しかし異文化の交流は、必ずしも双方に福音をもたらすとは限らない。先住民と白人との遭遇は、結果的に、後者による前者の「征服」と「清掃」に帰結するのである。
    ヨーロッパ人の探検・植民活動
1494年、トルデシャリス条約によってポルトガルと共に世界を二分したスペインは、ブラジルを除く新大陸をその勢力下においた。スペインの「征服者」たちは、まずカリブ海を席巻した後、先住民の築いたアステカ帝国、インカ帝国を滅ぼし、北米のフロリダやアリゾナ、テキサスにまで歩を進めた。1580年にはポルトガルとその植民地をも併合し、スペインは文字通り「太陽の没することのない大帝国」を作り上げた。
この大帝国に果敢に挑戦したのが、後発のフランスやイギリスである。フランスはカナダや五大湖地方、ミシシッピ川流域を支配下に置き、先住民と毛皮貿易を行ったが、入植は必ずしも成功とは言えなかった。
一方イギリスは、最初、毛織物の市場をアジアに求めて、新大陸南端のマゼラン海峡に相当する北方のアジアへの通路「北西航路」を発見すべく、ジョン・カボットが探検を行ったり、南西からのルートの確立を画策したフランシス・ドレイクが1577年、イギリス人として初めて世界周航に成功するなどした。しかしやがて北米大陸への植民を重視する勢力が台頭し、ウォルター・ローリーは、自らが命名したヴァジニアの地に、1585年から植民団を送り込んだ。このロアノークの入植地は謎を残したまま全滅し、「失われた植民地(現在のノースカロライナ州付近)」の伝説を産むことになる。十数年後の1607年、ヴァジニアのジェイムスタウンに最初の恒久的な植民地が創られ、十三植民地建設の嚆矢となった。新大陸を植民地支配の中心とするイギリス第一帝国(インド支配を中心とする第二帝国と区別される)の礎石が据えられ、ここに近代アメリカ史の流れゆく方向は定められたのである。





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