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浦賀 浦賀の主な歴史 |
三浦氏・北条氏の拠点のひとつとして |
平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三浦半島一帯は三浦氏が活躍するが、久里浜にほど近い久比里が重要な湊としての役割を果たしており、それに伴い浦賀も発展し始める。 室町時代になると、各地にお寺が開かれ始めた。現在浦賀にあるお寺の大多数は室町期に開かれたものである。戦国時代には、三浦氏の滅亡後に小田原の後北条氏が三浦半島一帯の支配を行うが、安房の里見氏が海軍を率いてたびたび三浦半島に攻め込んできたため、現在の東叶神社の浦山付近に浦賀城を築き、三崎と共に水軍の基地とし、これらに対抗した。これに伴い、船大工や鍛冶屋など船を建造、修理する職人たちも浦賀へ居を構えるようになり、これらの人々の生活を支える町ができていった。現在の浦賀へと続く第一歩である。 |
徳川幕府により繁栄 |
徳川家康が江戸に幕府を開くと、三浦半島は幕府の直轄地となり、代官・長谷川七左衛門が愛宕山の下に陣屋を構え、半島一円を支配した。家康はいち早く浦賀の湊に目をつけ、ここに外国の商館を作り貿易港として利用しようと考えていた。当時の外交顧問役が英国人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)であり、事実スペインとの交易を浦賀で行っていたという石碑が東叶神社にある。もし幕府がこの後のいわゆる鎖国状態に方針転換せず、このまま交易を続けていたとしたら、浦賀は「東の長崎(事実そういわれていたようだ)」として国際的貿易都市として、横須賀市とは別個の発展を現在も続けていたかもしれない。 鎖国となっても、国内船が数多く江戸に物資を運んできており、浦賀は湊町として引き続き発展していき、旅籠や料理屋・湯屋・髪結などが置かれ、「洗濯屋」と呼ばれた遊郭もあった。また、相撲をはじめ芝居・浄瑠璃等の寄席興行も盛んにおこなわれた。人の往来が盛んであったことから、伊豆や伊勢・紀伊などから多くの移住者を迎え入れており、戦国期に織田・豊臣軍を大いに苦しめた雑賀水軍の末裔も江戸初期に三浦半島へ移住。現在のさいか屋の創始者も雑賀氏の末裔である。 また、関西(主に紀州)から鰯を求めて、たくさんの漁船がやってくるようになった。近畿地方では綿作が盛んになり、最適な肥料として干鰯を求めていたことによるものである。この近海で水揚げし、加工された干鰯を関西方面に送り出す干鰯問屋が東浦賀に建ちはじめる。最初15戸ほどだった問屋は、最盛期には倍に増え、一時は全国の干鰯商いを独占するほどまでになった。 干鰯問屋の数が増え規模が大きくなるにつれて船の出入りも多くなり、これらの船の安全を図るため、幕府は港の入口に燈明堂を設けている。 |
浦賀奉行所の設置 |
江戸の町の発展に伴い、全国から江戸に向け、船によって物資が運ばれてくるようになると、三崎・走水両番所を統合して作られた下田番所では対応できなくなった。そこで、享保5年(1720)12月、幕府は浦賀に奉行所を設置し、「船番所」を置いて、江戸へ出入りする船をすべてここで検査する体制を整えた。この船改めを直接担当したのは、廻船問屋と呼ばれる下田問屋と東・西浦賀の問屋を合わせた通称三方問屋で、約100件ほどあった。下田に奉行所がおかれていた当時からこの仕事に携わっていた下田問屋の人々は、奉行所の移転と共に浦賀に移り住んできたが、その際に神奈川県の重要無形民俗文化財に指定されている「虎踊り」も、下田問屋の人々が浦賀に伝えたとされている。 18世紀末~19世紀初頭にかけて、浦賀沖にしばしば外国船が姿を見せるようになる。浦賀奉行所には鎖国政策をとっていた我が国を外国から守るための「海防」という大きな役割が加わった。文化年間(1804~1818)には幕府の命令により、会津藩によってはじめて台場(砲台)が築かれ、以後、川越・彦根・熊本・長州と、三浦半島の警備は各藩が目まぐるしく交替していく。なかでも、台場を作ることに最も苦労のあった会津藩にゆかりのある人々の墓が、鴨居を中心に数多く残っている。 文化・文政年間、浦賀は最盛期を迎え、江戸や大坂などから文人墨客が頻繁に訪れるようになる。それに呼応するかのように俳諧・漢詩などを学ぶ人々が増え、浦賀文化の華が開く時代となった。 浦賀奉行所与力の中島三郎助はその代表的な人物であり、彼は幕府の役人としてペリー来航の際に最初に黒船に乗り込み、折衝に当たるなどの敏腕を見せた。「大衆帰本塚」の碑文は、中島によるものであり、町の人々から敬慕されていた。明治24年に愛宕山に建てられた「中島三郎助招魂碑」はその表れである。 |
明治時代以降 |
明治維新を迎えた慶応4年(1868)閏4月をもって、浦賀奉行所は新政府の手に移された。このとき、奉行所関係の建物は取り壊されたが、船改めの業務は明治5年(1872)まで続いた。 新政府は現在の浦賀行政センターーの場所に浦賀役所を設け、主に佐賀藩の武士が勤務に当たった。明治3年、それまで東西に分かれていた浦賀村が合併し、明治9年には浦賀町となり、同22年には市町村制の施行に伴い、大津・走水・鴨居を併せた新しい浦賀町が誕生し、昭和18年(1943)に横須賀市と合併するまで自治体としての役割を果たしてゆく。 明治期の浦賀は、横須賀造船所の発展と歩調を合わせるかのように、海軍施設の整備が進むとともに地形や地理的条件から造船都市への歩みを始めていった。明治6年には干鰯市場や幕府軍艦の石炭置場であった築地町(現在の住友重機械工場㈱浦賀工場内)に水平練兵所が置かれ、明治22年からは陸軍の要塞砲兵練習所に引き継がれた。 明治24年、愛宕山に中島三郎助招魂碑建立の際に集まった人々からの声で、浦賀ドックの設立が決まった。 日露戦争時の塩の専売制が、浦賀の町の様相を大きく変えることになった。東の干鰯・西の塩が浦賀の代表的な商品であったが、ぺり来航前後から塩の商人として成長し、明治期には浦賀の商人の代名詞であった大黒屋の倒産は町への影響も大きく、浦賀は商業中心の町から工業の町へと変わっていくのである。 |