北条氏綱の謎
 ~氏綱の登場~
 


 宗瑞の嫡子氏綱
宗瑞の嫡子氏綱は、長享元年(1487)の生まれで、母は正室小笠原政清の娘である。元服の時期は不明だが、およそ文亀年間(1501~4)頃と推測される。当時、父宗瑞はいまだ今川氏の姻戚として、その政治勢力を構成する立場にあったから、実名のうち「氏」は、今川氏の当主でいとこにあたる氏親から偏諱として与えられたものとみられる。仮名は、父宗瑞と同じく新九郎を称した。
氏綱が、史料上最初にその名が見られるのは、永正9年(1512)8月12日付で、家臣伊東氏に対し中郡岡崎台(伊勢原市・平塚市)合戦における戦功を賞した感状であり、そこで宗瑞と連署している。そして同年12月に、武蔵久良岐郡本目(横浜市)の領主平子氏に与えた、その本領についての制札でも宗瑞と連署している。この年は宗瑞の相模経略が本格的に展開された年であり、氏綱が両文書に宗瑞と連署していることは、相模経略において、氏綱が宗瑞の嫡子として宗瑞と並ぶ中心的な役割をはたしていたことを示している。氏綱は、相模経略の展開に伴って歴史上に登場してきたのだった。
 家督相続
次いで永正12年2月に、鎌倉三か寺(建長寺・円覚寺・東慶寺)行堂に対し、諸公事を免除している。ここには氏綱の署判が日付の下にあり、宗瑞の花押が袖(文書右端)に据えられている。これは氏綱が発給した文書内容に、宗瑞が保証を与えたことを意味している。つまり、同文書の本来の発給者は氏綱であったことがわかる。それまでの氏綱の署判は、いずれも宗瑞との連署でしか見られなかったが、ここに単独で文書発給を行うようになっていた。
しかし、宗瑞が氏綱の発給文書の内容を保証していることは、氏綱単独の発給文書ではその効力がまだ薄いと認識されていたことに他ならない。これは、氏綱が宗瑞の嫡子として代理的に発給したものであったためと考えられる。後に氏綱の家督継承によって本拠が小田原城に移されることを考えると、家督継承以前より同城に在城し、相模支配の一部を担っていた可能性が高い。同文書も、そうした氏綱の立場に基づいて発給されたと推測される。
なお、小田原城下には伝心庵という寺院があり、これは永正3年に死去した宗瑞の妻南陽院殿を開基としている。建立の経緯などについては全く不明で推測の域を出ないが、南陽院殿は氏綱の母である可能性が高く、その死去は宗瑞の菩提寺として早雲寺が建立される前であることから、早雲寺の建立以前に、つまり家督相続以前に氏綱によって建立されたのではなかろうか。そう考えると、宗瑞妻の菩提寺が早雲寺とは別に小田原に存在していることにも納得がいく。そしてこのこと自体、氏綱が家督相続以前から小田原城に在城していたことの傍証になろう。



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