蒲生氏郷ドキュメント
 ~信長に見込まれる~
 


 早世が惜しまれた大器
 限りあれば吹かねど 花は散るものを 心みじかき春の山嵐
この辞世の和歌一首を残し、40歳という若さで文禄4年(1595)2月7日、会津92万石の太守蒲生氏郷は京都にて病没した。戦国武将の中で文武両道に秀でた氏郷であったため、その死が惜しまれてならない。
近江日野6万石から、伊勢松ヶ島、そして松坂12万石、更には会津42万石へ、次いで黒川を若松と改称して92万石へと栄進した氏郷は、その破格の栄進を万人が認めあえる大器であったのだ。
氏郷が病没せず、少なくともあと10年生きていたとしたら・・・・・関ケ原の合戦が、あのような形で起こったかどうか。徳川家康が天下取りに名をあげることもひょっとしたらなく、日本史は大きく様変わりしていたであろう。
  誕生息子
弘治2年(1556)氏郷は近江日野城にて生まれた。日野城主の定秀は49歳、その嫡男であり氏郷の父賢秀が22歳、母は近江守護職佐々木氏の重臣後藤賢豊の娘である。鶴千代と名付けられた。
永禄10年(1567)鶴千代12歳の時のこと。少年期の氏郷を伝える一つの記録がある。
時の連歌師の第一人者として名が高い里村紹巴の紀行文「富士見道記」の中にあり、富士山見物の途路、招かれて日野城へ立ち寄って歌会を催したくだりに、「嫡男鶴千代殿、深夜までご長座ありて、酌とり酌とり謡ひ給へり」という一節である。
これは、城中にとって迎えたこの客がどういう意味を持つ客かを見抜き、祖父と父の座に深夜まで連なって、「酌とり酌とり」とけなげに接待をし、乞われるままに謡曲を歌う鶴千代の非凡な姿が、紹巴の目に映ったからこそのこの一文であろう。
この里村紹巴を日野城へ迎え、当第一の連歌師に文の道への萌芽を讃えられたその翌年の永禄11年、氏郷の生き様を決定する織田信長との出会いがある。

  信長の人質として息子
織田信長はこの年、越前にいた足利義昭が頼ってきたのをきっかけに、将軍を要しての上洛を開始。近江路へ軍馬を推し進めた。これを迎え撃とうとしたのが鎌倉時代以来の近江南部の覇者佐々木六角氏であった。ところが佐々木六角氏ので本城巨大な山城である観音寺城に籠った配下の有力武士たちは、これより先、すでに主家への離反が相次いでいて戦う気力もなく、一支城が信長軍の猛攻によって早々に投稿してしまうと、城主自信が恐れをなして甲賀へ逃亡してしまい、戦わずしてあっけなく観音寺城は落城してしまった。
その翌日、信長の軍門に下った蒲生賢秀は、13歳の嫡子鶴千代を伴って観音寺城に入った。信長にまみえ、鶴千代を人質に差し出し、岐阜城へ送ったのである。
岐阜城には信長の軍門に下った諸国の武将から送られてきた人質の少年たちがいた。その中でも、鶴千代は群を抜いた存在だったようだ。信長は人質ではあったが、鶴千代を近習の一人とし、特に岐阜名刹瑞龍寺の南化和尚という禅僧に師事させるのだった。
後年氏郷が伊藤半五郎という大垣城主に宛てた手紙の中で、「野拙若年の頃、南化和尚に親しみ奉りて儒・釈道に尊意を得、また三条西殿右府、其の外、宗養、紹巴などに歌の道を就寝つかまつり、明け暮れに心掛け候」と書いている。つまり、人質として過ごした少年時代に、信長によってあらゆることを学ぶことができたわけだ。
また、こんなエピソードがある。
信長に仕える稲葉一鉄という武将が、ある夜信長を主座に夜の更けるのも忘れて軍談に花を咲かせていた。ふと見ると信長の近習である一人の少年が、眼を輝かせ身を乗り出して大人たちの軍団を一語も聞き漏らすまいと耳を立てている。ほかの少年ならば眠気を催す時刻なのに、この者一人がまったく異なっている。聞くと、近江日野城より送られてきた人質だという。
「蒲生の子は稀に見る器量人、やがては大軍を率いるに足る将になろう」と、一鉄が予言したと伝えられている。




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