北条氏直の謎
 ~氏直の登場~
 


 今川氏を継いだ氏直
氏政の後継者である氏直は、永禄5年(1562)生まれで、母は武田信玄の娘である黄梅院殿。氏直は正確には次男であるが、弘治元年(1555)11月8日に生まれた氏政の長男は早世したとみられるから、氏直は誕生時にはその長男であった。
幼名を国王丸といい、永禄12年5月頃に前駿河国守今川氏真の養子となって、その名跡を継承した。武田信玄の駿河侵攻により遠江掛川城に在城していた氏真は、北条氏と同城を包囲する徳川氏との和睦により北条氏に引き取られ、その後沼津に在所していた。同月23日に、氏真は国王丸を養子に迎えるについて氏政と相談する意向を示しており、沼津到着とともに、その名跡以上の話があがっていたとみられる。そして翌閏5月3日、氏政は駿河在陣の家臣らに、「氏真縁者の筋目を以て、名跡国王に相渡され候」と、氏真が親類であることから国王丸に名跡を譲ったことを伝えており、それまでに国王丸と氏真の養子縁組、さらに国王丸による名跡継承が行われていたことがわかる。
このことから、国王丸は駿河今川氏の当主となったとみられる。だが、元亀2年(1571)12月における武田氏との同盟により、駿河国守今川氏の名跡の有効性は失われ、さらに氏真自身も天正元年(1573)には北条氏のもとを離れるから、国王丸の今川氏当主としての地位も自然に解消されたとみられる。
 御隠居氏政の後見のもとで
天正5年3月、氏直は古河公方足利義氏に「初めて言上」している。義氏からの返書には「新九郎殿」と宛てられており、氏直がこれ以前に元服したこと、仮名は当主歴代の新九郎を称したことが確認される。義氏に初めて言上したというから、これは元服を踏まえてのことと推測される。元服は、前年末もしくは同年初めであった可能性が高い。時に16歳である。そしてこの年の10月の上総出陣で初陣を飾っている。
天正8年8月15日、徳川家康の次女督姫を正室に迎えた。北条氏権力の主導権はいまだ「御隠居様」と称された父氏政にあったが、すでに氏直も天正10年以降からは軍事行動の中心を担い、感状や知行宛行・安堵状の発給も盛んにみられるようになる。氏政の発給文書は、自身が管轄する領域支配に関する物以外では、外交関係などの書状類がほとんどであるから、氏直は、北条氏権力の主要部分の多くをすでに担っていたと見ることができる。
この後の天正11年12月が、仮名新九郎についての終見であり、同16年5月には、氏政は受領名相模守を、氏直は当主歴代の官途名左京太夫を称している。その間に両者の転任が行われたことが推測される。これにより氏直は、投手としての装いをさらに充実させた。



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