江戸城の歴史
 ~中世までの江戸城~
 


 江戸氏の館
近世城郭江戸城は平城であるが、中世城郭江戸城は平山城に分類される。12世紀、武蔵野台地の一部である麹町台地の恐らく現在の本丸周辺か北の丸あたりに、坂東平氏のひとつ秩父氏の一族・秩父重継が江戸氏を名乗り、館を築いた。「館」も広義の意味で「城」であり、「城」と「館」の違いはどれだけ軍事施設が備わっているか否かの程度の差である。目安としては、塀に矢狭間や鉄砲狭間などがあるのが「城」っで、ないものを「館」と区別する。
ほとんどの武蔵武士は平地に館を築いたが、桓武平氏ゆかりの武士は丘の上や小高い山に館を築くことが多かった。戦国期にその館の殆どが城郭となったことを考えると、桓武平氏ゆかりの武士たちは城造りに関して先見の明があったとも考えられる。江戸氏も台地に館を築いたことになる。重継の子重長は旗揚げした源頼朝を支持したが、頼朝には「坂東八カ国の大福長者」と呼ばれるほどの経済的な実力をもっていた。鎌倉時代、江戸氏は大いに栄えたが、室町時代になると、江戸氏は延文3年(1358)矢口の渡しにて新田義興を謀殺したことによって人望を失い、その後一族は衰退する。後に世田谷の吉良家へ仕え、さらに徳川家旗本になり、2万石の大名になったが、刃傷事件を起こし、領地没収となる。姓は喜多見(北見)となっていたが、これは室町時代に江戸氏宗家が武蔵国多摩郡木田見(世田谷区)に移り吉良家に仕えたことによる。
 太田道灌の江戸城
扇谷上杉氏の家宰・太田道灌は品川湊の傭兵隊長であり、道灌は金銭契約で雇った軍隊を指揮したという。その道灌が康正2年(1456)に江戸城の築城を開始し、長禄元年(1457)に江戸城は完成した。当時の縄張の範囲はおそらく現在の本丸部分か、あるいは三の丸まで含んだ規模であったようだ。道灌は城を、子(ね)城・中城・外城の3つの曲輪に分けたといわれ、子城に静勝軒と呼ばれた楼閣を築いたが、それは現在の富士見櫓の位置と考えられる。上杉氏防衛線の最南端に位置する江戸城は、川越城、岩槻城などとともに、対抗勢力であった古河公方・足利成氏制圧の城郭ネットワークの要であった。
江戸から海路で伊勢を経て京都へつながっていたことから、道灌は京都での知名度も高く、文化人とのパイプも太かった。また繁栄した湊町・江戸には傭兵市場があり、軍事に関する様々な武器や兵士が西南日本各地へ運ばれていたと考えられ、それが軍事と文化の両面に道灌が長けていた理由と考えられる。
やがて扇谷上杉定正は道灌の名声を妬み、或いは謀反の恐れがあると側近に讒言されたことから、文明18年(1486)道灌を暗殺する。道灌の実子・資康は江戸城を去り、山内上杉家に奔り、以後、扇谷上杉氏の家臣・曽我豊後守が城代となり江戸城に在城する。その後、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に川越城を攻められ、江戸城に逃れてくる。朝良の後は養子の朝興がそのまま江戸城に在城する。
 北条氏時代の江戸城
太田資康の子・資高の代になると、再び扇谷上杉家の麾下となるが、大永4年(1524)資高は北条氏綱に内応し、江戸城は落城、朝興は川越城に逃れる。氏綱は富永氏(本丸)、遠山氏(二の丸)、資高(三の丸)をそれぞれの曲輪に配して江戸城を守らせることにした。遠山氏とは美濃明智遠山氏の後裔であり、遠山景信のとき伊勢宗瑞(北条早雲)に属し、その子直景が初代江戸城代を命じられた。後の江戸町奉行・遠山金四郎景元も明智遠山氏の流れであるが、直系ではない。
太田資高はのちに北条氏に背き、江戸城を去る。一方、太田家の家督を継いだ道灌の養子資家も扇谷上杉氏に仕え、その子資頼のとき太田宗家は岩槻城主となり、さらにその子三楽斎資正のとき小田原北条氏を翻弄する活躍をした。小田原城征伐においては、江戸城の守将(川村秀重・城代遠山景政の弟)は家康の家臣、戸田忠次に城を明け渡している、(1590年4月)小田原北条氏時代の江戸湊は、利根川の舟運が直接小田原へ向かうことが多かったため、廃れていたという。






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