江戸城の歴史 ~中世までの江戸城~ |
ほとんどの武蔵武士は平地に館を築いたが、桓武平氏ゆかりの武士は丘の上や小高い山に館を築くことが多かった。戦国期にその館の殆どが城郭となったことを考えると、桓武平氏ゆかりの武士たちは城造りに関して先見の明があったとも考えられる。江戸氏も台地に館を築いたことになる。重継の子重長は旗揚げした源頼朝を支持したが、頼朝には「坂東八カ国の大福長者」と呼ばれるほどの経済的な実力をもっていた。鎌倉時代、江戸氏は大いに栄えたが、室町時代になると、江戸氏は延文3年(1358)矢口の渡しにて新田義興を謀殺したことによって人望を失い、その後一族は衰退する。後に世田谷の吉良家へ仕え、さらに徳川家旗本になり、2万石の大名になったが、刃傷事件を起こし、領地没収となる。姓は喜多見(北見)となっていたが、これは室町時代に江戸氏宗家が武蔵国多摩郡木田見(世田谷区)に移り吉良家に仕えたことによる。
江戸から海路で伊勢を経て京都へつながっていたことから、道灌は京都での知名度も高く、文化人とのパイプも太かった。また繁栄した湊町・江戸には傭兵市場があり、軍事に関する様々な武器や兵士が西南日本各地へ運ばれていたと考えられ、それが軍事と文化の両面に道灌が長けていた理由と考えられる。 やがて扇谷上杉定正は道灌の名声を妬み、或いは謀反の恐れがあると側近に讒言されたことから、文明18年(1486)道灌を暗殺する。道灌の実子・資康は江戸城を去り、山内上杉家に奔り、以後、扇谷上杉氏の家臣・曽我豊後守が城代となり江戸城に在城する。その後、扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に川越城を攻められ、江戸城に逃れてくる。朝良の後は養子の朝興がそのまま江戸城に在城する。
太田資高はのちに北条氏に背き、江戸城を去る。一方、太田家の家督を継いだ道灌の養子資家も扇谷上杉氏に仕え、その子資頼のとき太田宗家は岩槻城主となり、さらにその子三楽斎資正のとき小田原北条氏を翻弄する活躍をした。小田原城征伐においては、江戸城の守将(川村秀重・城代遠山景政の弟)は家康の家臣、戸田忠次に城を明け渡している、(1590年4月)小田原北条氏時代の江戸湊は、利根川の舟運が直接小田原へ向かうことが多かったため、廃れていたという。 |