信玄の侵攻作戦 ~中南信濃侵攻戦~ |
小笠原長時は、信玄の伊奈侵攻の時にも、高遠頼継・藤沢頼親らと結んで信玄の背後を衝こうとしていたし、上田原の戦いで信玄が村上義清に大敗を喫した後、公然と信玄に対する戦いを組織し始めている。確かに、上田原の戦いにおける信玄の敗北・失速は、信濃の豪族たちに信玄を信濃から追い出す好機であると認識されたとしても不思議ではない。 上田原の戦いがあったのは、天文17年(1548)であるが、早くもその年の4月5日には小笠原長時と村上義清らは、安曇郡の仁科氏や、先に信玄に降伏した藤沢頼親らと語らって諏訪に乱入し、放火をしている。7月には、諏訪西方衆の矢島氏・花岡氏らが反乱を起こし始めた。彼らを操っていたのは長時である。事実、信玄のもとにはその反乱に呼応するように、小笠原軍が塩尻峠に集結しているという情報がもたらされた。
長時には、信玄が先に進まない理由が理解できなかった。戦備に時間がかかっているのか、上田原の敗戦のショックが堪えているかぐらいにしか考えていなかったようだ。だがこれは、信玄の作戦であった。動きが緩慢であるという風に見せかけ、一つの奇策を考えていたのである。 7月18日夕刻、信玄は騎馬隊だけを率いて大井ノ森を出発した。行動は秘密裏にされた。翌19日にの午前零時か2時頃は、真っ暗の中塩尻峠に差し掛かっている計算になる。 武田騎馬隊は音もなく小笠原軍の本隊に近づいていき、夜が白みかけるのを待った。武田軍は明るくなるのと同時に軍装を解いて寝入っている小笠原軍に急襲をかけた。典型的な「朝駆け」の戦法である。夜討ちだと味方の犠牲も多くなるが、この戦法だと敵が鎧・兜等を脱いでいるので、夜討ちと同じ効果を上げることができた。 狼狽した小笠原軍は敗走し、塩尻峠の西にある勝弦峠を越えて逃げようとするが、そこで武田騎馬隊に追いつかれ、結局長時は敗走、わずかの軍勢に守られながら本拠地の林城に逃げ帰ったのである。これは、信玄と長時の力関係を変える決定的な意味を持つ戦いであった。 信玄は引き続いて駒を進め、その年の14日には林城の南8キロほどのところにある村井城を占拠し、そこを小笠原氏攻略のための前線基地としている。
信玄は小笠原討伐の機が熟したと判断し、7月3日に躑躅ヶ崎館を出陣、10日に村井城に入り、遂に15日夕方林城の支城を攻撃した。武田軍の奇襲であっけなく落ち、それを聞いた長時は戦意を喪失、結局林城を落ち、さらに村上義清を頼って逃げていってしまった。武田軍はほとんど血を流すことなく、筑摩郡を平定することができた。 信玄は中信濃を押さえたので、残りは南信濃と北信濃のみとなった。その南信濃も、伊奈の南半分にあたる下伊那郡の範囲は天文23年(1554)の段階で、神之峰城の戦い・松尾城の戦い・吉岡城の戦いによってほぼ制圧に成功しており、残るは木曾谷であった。 木曾谷を押さえていたのは木曽氏である。木曽氏は源平争乱期の木曽義仲の末裔として鎌倉以来、木曾谷の有力な在地領主で、戦国期には義康が木曽一郡を支配し、次第に筑摩郡・安曇郡に進出する勢いで、木曽福島城を本拠に独自の世界を作っていた。 武田軍の南下により、木曽氏と武田氏は境を接するようになり、木曽氏も独自の世界を保っているわけにはいかなくなった。天文14年(1545)頃からすでに両者の衝突は見られ、鳥居峠口あるいは伊奈口から木曽谷への武田軍の侵攻も見られたのである。 信玄とすれば、信濃全域の統一の宿願を果たすだけではなく、木曽谷が尾張や美濃への要路にあり、信濃統一後の信玄の構想には、美濃や尾張への進出も念頭に置いていたこともあり、木曽谷の攻略を果たしたかったのである。 弘治元年(1555)、この年は第二次川中島の戦いがあった年であるが、1月下旬に信玄は雪の木曽谷に軍勢を送り込んだ。福島城に木曽義康を攻めたが、城は容易に落ちず、結局信玄は兵を引いた。 川中島合戦後に和議を進めながらも信玄はこの年の8月、再び木曽谷へ兵を投入している。力攻めの失敗を反省した信玄は、木曽谷に攻め入ると周囲の糧道を封鎖し、完全な兵糧攻めの作戦を取った。木曽義康とすると「信玄は川中島に釘づけになっているはず」と思っていたため、急襲を受けて籠城の準備が不完全なまま城攻めを受ける形となり、20日ほど籠城したが、結局城を守りぬくことは困難な状況になった。 義康の方から和議の申し出があり、信玄も福島城攻略に時間をかけていられない事情もあり、その申し入れを受けることになった。義康の娘が人質として提出され、信玄は自分の三女を義康の嫡子義昌に嫁がせ、親族衆として本領を安堵した。こうして木曽谷も武田領に組み込まれたのである。 |