1・通説を疑おうり 私が思う通説との違い |
勧善懲悪では説明できない |
関ヶ原の戦いは、近世までの日本においては最大の正規軍による大開戦であり、その後の政治体制を規定した戦いでもあった。 この関ヶ原の戦いについては、これまで多くの歴史小説やテレビなどの歴史ドラマの影響から、確固たる一つのストーリーが出来上がってしまい、いまだその印象で物語れている印象が強い。 つまり、あたかも徳川家康が大勝利することが、戦う前から決まっていたような錯覚、また、関ヶ原という場所で戦うことがきめられていたかのような錯覚、そして何より、石田三成が家康憎しで立ち上がり、しかもそれが単なる悪あがきに過ぎないという程度にしか認識されず、三成は最初から負けることが決まっていたかのような錯覚である。 神君家康神話ともいうべき錯覚もある。家康は最初から御見通しで、家康の政治行動・軍事行動には深謀遠慮的な裏付けが常になされている、というイメージがあり、石田三成は人望がなく、悪辣な性格で後先も考えず短絡的に挙兵した愚将であり、毛利輝元はその姦計に乗せられた凡将である、という錯覚である。 日本人はいわゆる勧善懲悪が好きである。ゆえに家康が行った政治は善政であり、戦いには無敵、家康に勝てるわけはない、こういったストーリーを抱きがちだし、また、このほうが脚本も組み立てやすい。悪人・石田三成vs正義の味方・徳川家康という構図が、現在ではかなり変わって来てはいるが、この前提がいまだまかり通っているような気がしてならない。大河ドラマで、関ヶ原の合戦において家康と三成の対比を描く際、さすがに正義と悪という感覚ではないにせよ、家康に三成が劣るという前提で描かれ続けている。 関ヶ原の戦いというのは、当時の国政における最高レベルの政治的権力闘争である。それが軍事的衝突に発展したものであり、三成が家康に対して明らかに劣るようでは、そもそもそのような一大開戦になるはずがない。ましてや三成悪人説のような、勧善懲悪などで語れる話のはずがない。 |
徳川史観を疑う |
当時の国政の最高レベルの権力闘争であるということは、単に家康と三成の争いなどという個人レベルのものではあるはずがない。基本的には徳川家康とそのシンパの家康グループと、石田三成・毛利輝元を中心とする反家康グループとの間の熾烈な権力闘争であって、国政の主導権を掌握するため両者の政治的打算のぶつかり合いであったとみるべきである。その意味では、どちらが善でどちらが悪といった見方は排除するべきで、政局の主導権を握ろうとした両者の政治闘争にそれぞれが保有する武力(軍事力)が結びついた結果、慶長5年の軍事衝突が現出したのである。 戦いから400年以上たった現代では、どうしても結果論で物事を見てしまう。つまり、勝利した家康側からいわゆる勝者の論理で歴史を語ってしまいがちである。そしてそれは、勝者によって、つまり徳川家によって都合のよいように歴史的実像がゆがめられ、歴史の真実が捻じ曲げられているのではないか。特に、関ヶ原の戦いは江戸幕府成立の歴史的契機になった戦いなので、徳川家にとって戦いの正当性を担保する必要性があった。実際には、関ヶ原の戦いの勝利で担保されたわけではなく、その後の幕府による長い支配体制が続く中で、後付けとして徳川家の正当性が醸造された、とみてよい。石田三成を悪逆の罪人であるかのように喧伝し、不当に低い評価を与えたのは徳川史観の影響であって、三成を逆賊に仕立て上げないと、江戸幕府の成立にかかわる関ヶ原の戦いでの徳川家の政治的正当性が失われてしまう、という経緯があったことは容易に理解できる。 江戸幕府が作り上げた虚像を、現代の我々が実像と錯覚して、何の疑問も持たず信じているのではないか。家康が関が原で勝ち、天下を取ることは最初から決まっていたという見方である。こうした虚像を剥ぎ取り、関ヶ原の戦いに関して歴史的実像を明らかにするには、通説で述べられているような先入観を一度リセットして再検討する必要がある。家康vs三成という図式だけで関ヶ原を語るべきなのだろうか?そもそもそのあたりからも検証する必要があると判断する。 |
私が思う通説との違い |
私が思う通説との違いはいくつかある。下記のとおりである。 一、家康率いる東軍がそもそも勝てる前提であったのだろうか? あたかも東軍が勝利する前提で動いていたと見る向きが今でも強い。石田三成・毛利輝元グループの西軍から東軍への裏切りが続出した点が、後世の人間から見るとそう感じるのだろうが、果たしてそうなのか。 一、家康グループの東軍と三成・輝元グループの西軍という二つの図式だけで判断してよいのか? この二極体制だけで関ヶ原を語れるのか?中央でも前田利家グループ、その死後は利長、宇喜多秀家グループが存在し、一定の勢力を誇っていたと思われる。また、黒田如水、伊達政宗など、独自の動きを見せていた諸勢力は、東西いずれに属していたと判断してよいものなのか。 一、そもそも家康vs三成なのか?三成が家康を憎んでいたのは本当なのか?真のアンチ家康が別にいるのではないか? 上記の点も含めて考察すると、実は真のアンチ家康は宇喜多秀家ではないのか?三成が当初から家康を抹殺したいと考えていたこと自体も疑いが生じる。 一、関ヶ原の本戦が、従来通りの展開であったのか疑わしい。 小早川英明の裏切りで一気に東軍の勝利となったという説。これが覆ろうとしている。そもそも数時間の激戦もなく、すぐに決着がついていたという意見もある。さらには、関ヶ原で激戦があったのかどうかも怪しいらしい。 以上の点を含めて、当該項目で考察していきたい。 |