信玄の領国経営
 ~治水事業~
 


 河川氾濫相次ぐ甲斐国
武田氏が治める甲斐国は山岳地帯が広く、平野部はごくわずかである。南アルプス北端の山々に源を発する釜無川、秩父山地を源流部とする笛吹川・荒川などが国中地域の主要河川である。それらは盆地の南側で合流して、最後は富士川となり、富士山の西方を南流して駿河湾に注いでいる。
深い山々から流れ出た河川は、甲府盆地内で扇状地を形成して急勾配で流れ下り、多くの水害を引き起こしてきた。特に釜無川と御勅使川は、甲府盆地の西半分に及ぶ地域に氾濫による被害をもたらしてきた。そのため甲斐国では古くから治水対策がとられ、特徴ある治水技術が醸成されてきた。武田信玄も治水事業に邁進した。
 信玄堤
信玄は天文10年(1541)に父信虎を駿河に追放し甲斐国の実権を握ると、信濃への攻略を進めるさなか、国内の治水事業にも取り組んだ。「治水ハ国家ノ専務ナリ」(甲斐国志)と称される通り、領土の安定化や生産の基盤となる治水事業は領主の責務であった。
釜無川と御勅使川が合流する甲斐市龍王付近は、甲斐国一の治水の難所として知られていた。信玄は釜無川左(東)岸にそびえる高岩の南側に堤防を築き、東向きの河道を南側に向けるための工事を始めた。のちに「信玄堤」と呼ばれる堤防である。
築提開始の時期ははっきりしないが、堤防の裏側に棟別役免除の条件で集住者を募る永禄3年(1560)8月の古文書が残るため、この頃には一応の完成を見たと考えられている。
この居住者募集によって新しくできた村は「竜王河原村」と呼ばれ、宿の人々は釜無川の旧河原などで新田開発を進める傍ら、堤防の日常的な管理や破堤等の緊急時の対応に従事した。堤防が決壊すると宿は直ちに洪水にみまわれるため、宿の人々にとって堤防の保全は必要条件であったのである。
 強力な治水事業の成果
信玄が築いた堤防の規模や構造は、当時の史料がないため判然としないが、江戸時代の貞享5年(1688)の書上に記録されたこの一帯の諸施設のうち、長さ350間(約630ⅿ)、幅8間(約14ⅿ)の本土手が成立当初の本体とする見方がある。
この幅8間も段階的な嵩上げの結果である可能性が高いが、要所に築かれたことを考えると、当初からある程度の規模は備えていたであろう。信玄堤は幾たびかの決壊を経験しつつ、補強されて形態を変え、現在に至っている。
信玄は甲斐の人々を水害から救うために信玄堤を築いたといわれる。単に水害阻止のためなら既存の河川の両側に頑固な堤防を築けばよいのであろうが、信玄が進めたのは川筋を変えることであった。
河道が変わることで、土地を失った人々も多かったであろうし、それまでの堰や用水路は使えなくなり、新たな利水施設の再整備が余儀なくされた地域も多かったに違いない。その影響は、甲府盆地西側半分という広域に及んだ。
信玄堤築造は治水面のみが強調されてきたが、その構想の中には土地利用や水利体系の再構築が大きな目的としてあったと推測される。
築堤によって不利益を被った地域からは反発があり、計画遂行に於いて様々な困難が生じたであろうが、武田氏の強力な広域支配によって事業は進められていった。




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