1・通説を疑おうり 東軍・西軍という区分 |
何の疑問もなく使っている東西区分 |
通説では、関ヶ原の戦いにおける両陣営を東軍・西軍として区分しており、現代の我々も何の疑問も持たず東軍・西軍の呼称を使っているが、慶長5年(1600)当時の同時代の史料に東軍・西軍という書き方はされていない。もちろん、石田三成側も徳川家康側も、己の陣営及び敵陣営を西軍・東軍などと呼んでもいないはずだ。つまり、こうした呼び方・分け方は便宜上のものでしかない。あまりにナンセンスであるが上に、東軍=勝ち組、西軍=負け組という従来の参加大名の区分は、これまで関ヶ原の戦いの図式を非常に単純なものに収斂させてしまっている。 関ヶ原の戦いにおける権力闘争の本質を見極めるための区分の仕方であれば、石田三成・毛利輝元連合軍VS徳川家康主導軍、という区分のほうが妥当であり、アンチ家康軍(豊臣政権護持派)VS家康シンパ軍(徳川家康推戴派)という見方もできる。 東軍・西軍という区分は古くからおこなわれており、近代の研究史におけるルーツは明治26年(1893)に元眞社から発行された参謀本部編纂「日本戦史・関原役」に源流をもつのかもしれない。明治時代になって陸軍参謀本部として正式な戦史研究を目的として編纂されたもののようである。 この「日本戦史・関原役」には、「第三編 両軍計画及措置」として「第一章 西軍」の記載が73~93頁、「第二章 東軍」の記載が93~114頁にされている。確かに、日本陸軍の参謀本部が純粋な戦史研究として戦況分析をする場合、東軍・西軍という区分のほうがわかりやすくて便利ではある。 |
東軍・西軍という区分の無意味さ |
そもそも、東軍・西軍というようにすべての大名を二つの区分にすることは、慶長5年当時の諸大名の動向を考えた場合、歴史学的には意味のある区分とは言えないのである。全国の諸大名の隅々まで末端の大名を含めて東軍・西軍というようにいずれかの陣営に、しかも意思統一された軍集団が編成されたという理解は間違っており、諸大名はそれぞれの思惑で動いていたに過ぎない。つまり、東軍・西軍という二つの軍集団が整然と編成されて両軍が日本全国で戦っていたというのは幻想にすぎないのである。 では、当時の諸大名他は、関ケ原の合戦時における両陣営のことをどのように呼称していたのであろうか。 加藤清正は、関ケ原合戦後の9月24日の時点で、「天下之様子」は「関ヶ原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じている。(鍋島直茂宛加藤清正書状)これは、毛利輝元が大坂城に居て関ヶ原の戦場に赴いていないにもかかわらず、「輝元方敗軍」と報じているのは、毛利輝元が石田・毛利連合軍のトップであり、首謀者であったとみなされていたことを示している。 黒田如水は、島津義弘・立花宗茂を「奉行方之者」(慶長5年10月4日付吉川広家宛黒田如水書状)と表記しているので、石田三成を筆頭とする四奉行(五奉行のうち浅野長政を除く残りのメンバー)が中心となっていたことを如実に示しており、それに毛利輝元・宇喜多秀家・小西行長などが加わった軍集団とみなすことができる。この場合、四奉行は兵力数の上で大きな役割を担ったというよりは、豊臣政権の中心人物としてこの挙兵の政治的正当性を主張するうえで必要不可欠なメンバーであったといえる。つまり、政治的な存在意義が大きかったのだ。 |
国論を二分した大規模権力闘争 |
中川秀成は、「内府様=家康」と対比するうえで「奉行衆又輝元」と表記しているので、家康と対立する勢力について、石田三成をはじめとする奉行衆と毛利輝元の連合軍とみなしていたことがわかる。 こうした同時代史料における表記は、石田・毛利連合軍VS徳川家康主導軍、という区分が妥当であることを示すものといえる。 慶長5年に起こった関ヶ原の戦いについては、その戦いに至る同年の動向を考慮すると、日本史上における、古代の壬申の乱、近代の戊辰戦争と同様に、武力を背景として国論を二分した大規模戦争・大規模権力闘争であるといえる。その意味では、慶長5年の干支をとって、長期にわたるこの争乱状態を「庚子争乱」と名付けてもよいかもしれない。 この関ヶ原における権力闘争は、なにも9月15日に行われた関ヶ原の戦い本戦の勝敗結果だけではなく、6月16日に家康が上杉討伐のため大坂城を出陣してから、9月15日の関ケ原の戦いを経て、各地(九州や東北)での戦いが終結する11月ごろまでの争乱状態が約5か月間の長期にわたって続いた点にこそ、その歴史的意義を見出さなければならないのである。 |