東海道線の全通
~東海道筋の調査~
 

 東京と京都を結ぶ鉄道計画
明治政府は、明治2年(1869)には東京と京都を結ぶ東西両京間鉄道を敷設することにしていたが、その経路については未定であった。東京と京都を結ぶ街道には東海道と中山道があるが、どちらのルートで敷設するのかという問題である。東海道は、東京の日本橋から神奈川、静岡、愛知、三重、滋賀の諸県を経て京都の三条大橋に至る、約495キロメートルの街道である。中山道は同じく東京の日本橋から埼玉、群馬、長野、岐阜の諸県を経て滋賀県の草津で東海道に合流する、約506キロメートルの街道であった。
東西両京間の幹線鉄道は、明治4年ころまでに東海道経由の路線として考えられていたようである。東京~横浜間の開港場路線も、東海道経由の東西両京間鉄道の一部を為す物だった。政府が明治3年6月に、工部省出仕の土木司員佐藤政養と小野友五郎を調査に派遣したのもそのためと思われる。
 中山道を薦める
佐藤と小野は東海道筋の調査を終えると、明治4年2月に「東海道筋鉄道之儀ニ付奉申上候書付」という報告書を提出した。その報告書に添付された「東海道筋鉄道巡覧書」によれば、二人は路線選定に当たってトンネルの掘削をできるだけ避け、山があれば迂回して切割や削割で対処するという方針のもとに、東京から熱田までは東海道を行き、熱田からは美濃路の西方を進んで中山道につないで京都に達し、京都からは淀川右岸を通るという総距離約308.9キロmにも及ぶ経路をたどった。
東海道は江戸時代以来の輸送の大動脈で、陸運はもともと整備されていたが、海運でも東京~神戸間にはアメリカの太平洋郵船会社の蒸気船を始め、数社の外国船が旅客・貨物の輸送に従事し、回漕会社の業務を引き継いだ回漕取扱所も東京~大阪間に蒸気船による定期航路を開設していた。そのため多額の資金を費やして東海道筋に鉄道を敷設しても、それほど利用度は高まらない。それに対して中山道筋には「運送不便ノ地」が多いので、東西両京鉄道を中山道経由で敷設し、ところどころに「枝道」をつければ「産物運送、山国開化ノ一端」になる。佐藤と小野はこのように述べて、東西両京鉄道は中山道経由で敷設すべきであると結論した。
 ボイルの中山道線調査上告書
東海道筋の調査を終えた小野友五郎は、休む間もなく明治4年3月、今度は中山道筋の調査・測量に着手し、明治6年には板橋から多治見までのルートを再調査した。その翌年には、モレルの後任の建築師長リチャード・ウイカルス・ボイルも中山道筋の調査・測量を試みた。
ボイルは1874年(明治7)5月に神戸を出発し、京都を経て中山道に入り、そこから高崎に出て新潟まで往復し、同年8月に東京に着いた。次いで翌年の9月、横浜を出発して高崎を経て中山道を踏査し、11月に神戸に戻った。ボイルの中山道調査は合わせると約半年に及んだが、その結果を1876年9月に「中山道調査上告書」としてまとめ、政府に報告した。ボイルは、東西両京鉄道は東海道経由ではなく、中山道経由で敷設すべきだとした。
ボイルによれば、海運のある東海道筋に鉄道を敷設することは二重投資になるといわれても仕方がない。鉄道の敷設が必要なのは東海道筋ではなく、山間地で交通の便が悪い中山道筋であり、鉄道敷設によって中山道沿線の産業開発が進めば日本経済にとっても有益であるというのである。このように述べてボイルは、①東京~高崎間(106.2キロm)、②高崎~松本間(128.7キロm)、③松本~中津川間(112.6キロm)、④中津川~加納(岐阜)(約88.5キロm)の四区に、加納から米原、大津を経て西京に至る約70マイル(約112.6キロm)の路線を加え、およそ345マイル(約555キロm)からなる中山道経由の東西両京間鉄道を敷設すべきであると結論付けた。




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