人間・土方歳三研究 ~土方の肖像~ |
非常に有名なこの写真。土方歳三35歳の最晩年の写真である。洋装に身を包み、髪も散切りになっているこの姿は、新撰組全盛時のものでは当然ない。箱館渡航後に撮影されたものと思われ、撮影者は箱舘会所町で写真館を開業していた紀州人の田本研造であると推定されている。 田本は榎本武揚も撮影しているのだが、そのときは土方が松前の戦闘から五稜郭に凱旋した時期でもあり、土方もこの束の間の休息の中、榎本と前後してこの写真を撮った可能性がある。 この当時、土方は陸軍奉行並の役職であり、髪は断髪、洋服は上衣・チョッキ・ズボンの三つ揃いの冬服である。上衣はダブルボタンのフロックコート型で、ジェントルマンコートとも呼ばれ、実は西洋軍服ではない。上襟にビロードを張ったやや古風なデザインで、時にはボタンを掛けて着用した。 小ボタンの並んだチョッキの胸から右脇へ三本の懐中時計の鎖が流れ、真っ直ぐ垂れた一筋に下がるのはメタルらしい。時計は、作戦上の時刻の整合性の確認など洋式軍事に必要不可欠だった。ズボンはズボン吊りを用いたので、尾錠止めのバンドは、刀と拳銃ケースを携帯するためのもの。 襟元の白色の部分の上縁のラインは、シャツのスタンドカラーで、当時はこれに別のカラーを留め付け、ネクタイを結ぶのが正規の着装だが、土方はそれを煩わしく感じたのだろう。 右手と左手の位置がそれぞれ違うのは、どうも右足を負傷した影響ではないかと思われる。宇都宮城攻防戦で土方は、足指に被弾し、重傷を負っているが、おそらくそれは右足ではないか。ブーツの中の力の入らない足先をいたわるように、右股に掌を置いたのではないだろうか。 それにしても、土方が近藤勇らと浪士募集の呼びかけに応じて上洛したのが文久3年(1863)2月であるから、この写真を撮ったのがおそらく明治2年ころ(1869)であろう。わずか6年の間に、武士ではなかった彼が武士に憧れ、新撰組副長となり、やがて近代的装備の洋装に身を包み、しかもそれが実に絵になる。にわか仕立てでとても洋装に相応しいと思える志士たちがお世辞にも多いとは言えない中、土方のそれは実に見事である。己の心の中の節は曲げないが、それを形成するための変わり身の良さはいつでも発揮できる柔軟さは、相容れないようで実は表裏一体で形成されるものなのではなかろうか。土方に限らず、滅びゆく旧幕府側の人物にこそ、実はこのような人材が多かったような気がしてならない。土方へのレクイエムの幕が今こうしてあけようとしている。 |