鳥羽街道の開戦
 ~鳥羽伏見とは~
 


 鳥羽
幕末の天下分け目の決戦地となった、鳥羽と伏見はどのような場所なのだろうか?
まず鳥羽は、鴨川と桂川が合流する地点に開けた土地である。平安時代に、京都の外港として鳥羽津が開かれ、鳥羽の作道が朱雀大路とつながって羅城門まで直線道路で行ける水陸交通の要衝であった。歴代の天皇の行幸もあり、白河法皇が壮麗な離宮を造営してから皇族や貴族の別荘が建ち並ぶ風光明媚な副都心として発展した。馬借・車借といった運送業も栄え、京都の出入り口に位置するので、院政末期の争乱時には拠点として争奪された地点でもある。江戸時代初期に運河の高瀬川が掘られて水運の中心が伏見に移ってからも、稲作のほかに二毛作でウリやサトイモを栽培する郊外農村として栄えていた。
 伏見
伏見の名の由来は「伏水」だとする説がある。文字通り伏し水、伏流水である。注ぎ込む川水は無数の細流に分かれ、田圃に引かれ、池や沼に満ち、入江や沢に溢れ、地下でも飽和して滲み出し、湧き水・溜り水になって至る所に偏在した。河流のあたりは一面に草の生い茂る湿地帯である。ウズラの名所だった深草の里もこの近くである。この地に営まれた貴族の別業は水景に臨んだ山荘であり、人々が足を伸ばして観月や狩猟を楽しむ近郊の別天地であった。
この里の景色を一変させたのが、豊臣秀吉の大土木工事である。文禄4年(1595)伏見桃山築城にともなう秀吉の大土木工事で長大な堤が築かれる前は、宇治川は巨椋池に流入していた。今でも近辺の地名に中書島・向島・填島など「島」が付くのが多いのは、古くは遊水地隊といって池とも川ともつかぬ水面に顔を出した島洲だったからである。横大路付近は巨椋池の一部であった。
秀吉は、宇治川左岸に堤を築いて、川の流れと巨椋池を切り離した。宇治川は独立河川に変わり、さらに河流の淀との間にも堤を築いて伏見を整備された河港とし、大坂への舟運ルートを作り出した。宇治川は淀で桂川と合流し、さらに木津川を加え、淀川と名を変えて大坂湾に注ぐ。大小の船舶が淀川を上り下りして旅人と物資を大量に移送する。大坂と京都は伏見経由で最短距離で結ばれるに至ったのである。
 現在
秀吉は大名たちを伏見に移住させて壮大な城下町を建設する。金ぴかの大名屋敷が甍を連ねた。しかし、豊臣政権が没落して徳川の世になると、元和9年(1623)伏見城は廃棄された。城下町は一気に寂れ、城跡は果樹の桃が植えられて桃山に変わった。江戸時代には商業交易と宿駅の町として繁盛したが、かつての勢威は消え失せた。
現在、鳥羽も伏見も京都市の一部になって、鳥羽は南区、伏見は伏見区に行政編入され、境目のない住宅地に変わっているが、幕末の時代には、伏見は水陸交通の要衝として賑わう河港、鳥羽は旅人相手に茶店などを副業にする街道沿いの平和な村落だった。田畑の間に大小の沼や池が散らばる低湿地が広がり、宇治川と桂川・鴨川の堤防に沿って二つの街道が淀を起点にして京都に通じていた。一筋は伏見街道、淀堤を伏見まで歩き、伏見奉行所前で直角に左折して東山の麓を北上して京都市中に入る。もう一筋は、桂川の堤下から鴨川べりに伸びる鳥羽街道。上鳥羽の小枝橋で鴨川を渡り、四ツ塚関門を経て東寺口に達する。さらにもう一本、鳥羽街道の東側を竹田街道が通っていた。秀吉の伏見開発後、京都へのバイパスとして開通した道路である。
幕末にピリオドを打った戦乱は、洛南のこの田園風景を舞台に選んだのである。陸の街道を歩兵隊が進軍し、重い大砲や弾薬、兵糧は水路で運ばれ、軍勢の流れは吸い寄せられるように、運命の鳥羽・伏見へと集束していった。




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