鉄道時代の到来 ~西洋鉄道事情~ |
世界に広がりつつあった鉄道の情報は、日本にも伝えられた。バタフィア(現在のインドネシアのジャカルタ)のオランダ領東インド政庁は、1840年にアヘン戦争が起こると、その情報を幕府に伝えるため、同年から毎年「別段風説書」を提出した。そして、46年からは広く世界の様々な出来事を記載するようになり、その中に鉄道の情報も含まれていたのである。
1852年には、スエズ地峡の鉄道敷設をめぐるエジプトとトルコの対立が報じられ、「この鉄道はヨーロッパからインド地方に向かう旅行のため陸路を取る旅客と貨物の輸送に役立つに違いなく、ひとたび完成の暁には、その遠く離れた国々の間の連絡を著しく早めるだろう」と、同鉄道の意義を論評していた。また1857年には、地中海と紅海をつなぐスエズ運河の開鑿が「ヨーロッパとアジアの間の貿易活性化のために」計画されており、同運河が竣工すれば「イギリスからの船舶は、50日間で中国に到達できるだろう」という見通しを述べている。そして、イギリスの植民地オーストラリアで、「近頃、初の鉄道が、一般的な輸送のため開設された」ことも報じられていた。 このように、欧米諸国やその植民地での鉄道敷設に関する情報は、鎖国下の日本にも伝えられていたが、さらに蒸気機関車の模型がもたらされると、鉄道のメカニズムを解明し、実際にそれを製作する人々が現れた。
このとき、ペリーは将軍への献上品の一つとして蒸気機関車の模型を持参し、横浜の応接場の裏で組み立て幕府の応接掛らの前で運転をして見せた。そのときに蒸気車模型に乗った河田八之助は、その様子を「火発して機活さ、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数回極めて快し」と日記に記している。蒸気機関車模型の運転は、江戸城においても行われた。伊豆の韮山に反射炉を築造したことで知られる江川太郎左衛門は、将軍家定以下幕府首脳陣の前に蒸気車模型を運転した。 日本は1854年3月、アメリカと下田、箱舘の開港と薪水・食料の供給などを定めた和親条約を締結した。条約締結を機に、蒸気船による太平洋横断ルートの実現可能性が開かれ、1867年(慶応2)にはアメリカの太平洋郵船が太平洋横断定期航路を開設した。そして、その後の汽船・鉄道・電信分野における急激な技術革新もあって、「交通革命」が一挙に進展し、世界の一体化が進んだ。 フランス人作家ジュール・ヴェルヌは、1872年に冒険小説「八十日間世界一周」を発表した。これは、主人公のイギリス人資産家フィリアス・フォッグが72年10月2日にロンドンを列車で発ち、その後陸路は鉄道、海路は蒸気船を利用して80日間で世界を一周し、12月21日にロンドンに戻ってくるという物語である。(詳しくはこちらにて) 日本政府が鉄道の導入を、当時政府の最高意思決定機関であった廟義で決定するのは、ペリーが蒸気車模型を持参してから15年も経過した1869年(明治2年11月)12月であった。すでにこの年、サンフランシスコからニューヨークまでに至り大陸横断鉄道が開通し、スエズ運河も完成していた。そして翌70年にはボンペイ~カルカッタ間のインド大陸を横断する鉄道が開通し、ヨーロッパ、北アメリカ、アジアを周回する汽船と鉄道による交通ネットワークが形成された。鉄道が世界を結び付ける時代に突入したのである。 |