武田氏は、弘治元年(1555)の川中島合戦を初見に、鉄砲衆の編制を行っており、重要な戦線に集中配備されていたと推察される。この時鉄砲衆が派遣された旭山城は、当時武田氏と長尾景虎(上杉謙信)との合戦の最前線にあたっていた。また永禄7年(1564)3月、武田信玄は上野国和田城に鉄砲の弾薬・玉薬・矢、兵糧の搬入を試み、これを実現できた者には褒美を与えるとしている。和田城は、上野国における武田方の拠点として重視され、武田氏が大改修を加えて、城主和田業繁のもとへ重臣金丸若狭守忠経らを派遣していた。これは、上杉賀らによる攻撃が十分予想されたからであり、事実、永禄7年3月9日、和田城は上杉軍の猛攻を受けたが、これを退けている。信玄は翌4月、和田城支援のため、武田一族の山宮右馬助らと鉄砲衆を派遣している。
また、永禄10~12年ころのものと推定される武田信玄旗本陣立書をみると、鉄砲衆として城和泉守景茂・本郷八郎左衛門尉・曽根七郎兵衛・落合市丞・小幡又兵衛昌盛・玉虫助太夫定茂・関甚五兵衛・今井九兵衛昌茂・六嶋兵右衛門尉守勝・甘利郷左衛門尉信康らが登録されており、彼らが鉄砲兵を率いた指揮官であることがわかる。
それでは、鉄砲衆はどのように編成されたのであろうか。この点については、永禄7年(1564)6月、武田信玄が東美濃の遠山景任・直廉兄弟に宛てた書状が参考となる。信玄は遠山氏が尾張(織田信長)、金山(斎藤方?)と入魂である事を喜び、上杉謙信が信濃に出兵してきたとの情報を得たので、事実なら一戦する覚悟なので、直ちに約束の鉄砲衆50人を加勢として派遣してほしいと申し入れている。ただし信玄は、井口(斎藤龍興)が金山を攻めようとしているとの情報があるので、遠山直廉も武田軍支援のため出陣の準備中だと聞いているが、用心の為残留したほうが良い、志はありがたいが延期するよう求めている。
このように何らかの事情で、自身は軍勢を率いて参陣しない家臣に対して、武田氏が鉄砲衆のみの派遣を要請するという方法は、長篠合戦時に織田信長が長岡藤孝らに要請したものと全く同じである。武田氏は出陣にあたって、参陣を命じる家臣と残留するものとを厳密に区分していた。この時に、境目の城塞や本領などに残留する家臣に対して、彼らが所持する鉄砲と鉄砲兵のみを「加勢」として派遣を要請したのであろう。
参陣を命じられた家臣たちは、軍役定書によって賦課された知行役の人数と武装を支度して、武田軍の陣営に加わった。この時、知行役として動員された鉄砲は、戦場に到着すると、着到帳に記され点検が済めば、主人から引き離され、鉄砲だけで編成されたものと考えられる。このように武田氏の鉄砲衆は、旗本鉄砲衆、「加勢」の鉄砲衆、知行役の鉄砲衆という方法で戦場に集められ、鉄砲衆だけで部隊が編成されたのであろう。武田氏の鉄砲衆も原則として「諸手抜」により編成されたものと考えられる。
これは、織田軍や徳川軍にも同じようなことが言え、長篠合戦時も含め、両軍とも鉄砲衆は全領国の家臣から増援を受けたり、合戦場に参陣した諸隊から引き抜いたりした「諸手抜」による編成されたものであった。だとすれば、織田・徳川軍鉄砲衆と編成方法と、武田氏のそれも全く同じだったのであり、両軍に質的差異はなかったことになる。ここでも、保守的な武田氏、革新的な織田氏という構造は成立しない。
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