織田氏・武田氏の鉄砲装備
~武田氏の鉄砲運用~
 

 早い段階で鉄砲を所持
武田氏の関係史料や記録によると、武田氏の鉄砲衆が登場する初見は、弘治元年(1555)である。著名な「勝山記」「妙法寺記」の記述にこうある。
「アサヒノの要害エモ、武田ノ晴信人数ヲ三千人、サケハリヲイル程ノ弓ヲ八百丁、テツハウヲ三百カラ御入レ候」
これは、弘治元年の第二次川中島合戦において、武田氏の調略に応じて、上杉方から離反し、信濃善光寺近くの旭山城に籠城した信濃国衆栗田鶴寿を支援すべく、援軍3千、鉄砲3百挺、弓8百挺を派遣したという記録である。しかも信玄がわざわざ派遣したのは、弓・鉄砲と共に、吊り下げた針にも命中させられるほどの名手を揃えたと喧伝されていたという。この鉄砲衆が、どのように編成されたものであったか(旗本鉄砲衆なのか否か等)は判然としない。しかし、この当時の東国大名武田氏が、3百挺の鉄砲を揃えていたことは特筆されるべきである。
 玉弾と銃弾の確保
ところで、火縄銃の運用に不可欠の玉薬と銃弾を、武田氏はどのように確保していたのだろうか。上記の記録とほぼ同時期の記録によると、塩硝と鉛の確保に武田氏が一早くから努力している様子がうかがえる。
塩硝とは、煙硝のことであり、火薬や硫黄などと混ぜ合わせて鉄砲の火薬を製造するのに欠かせない原料である。この塩硝が輸入品なのか、国産なのかは判然としないが、これを専門に扱う商人がおり、これに関銭などの諸役を馬三疋分免除すること等で積極的に招き入れようとしていたようだ。
一方で、信濃衆(諏訪衆)の千野靱負尉が武田氏に提出した目安案によると、千野は弘治3年(1557)頃、武田重臣板垣信憲の使者として越後国西浜に赴いたが、その際に敵軍と遭遇し、鉄砲で撃たれて負傷したという。これは武田氏が装備していたものではなく、上杉謙信もしくは上杉方の国衆らが保持していたものと思われるが、実戦に鉄砲が投入されていたことがわかる。弘治年間には武田氏だけではなく、上杉氏など他の東国大名にも鉄砲は広まり、実戦に使用されていたことがわかる。
 鉄砲装備率
その後、武田氏は家臣たちに軍役を賦課するにあたって、鉄砲の装備を指示するようになる。その軍役員数に占める弓・鉄砲の割合を見ると、次のような特徴がみられる。
弓は家臣12人が賦課されており、軍役員数に占める割合は約11.9%となる。鉄砲は家臣18人が賦課されており、その軍役員数に占める割合は約10.7%で、弓とほとんど変わらない。
ちなみに上杉氏では、天正3年(1575)の「上杉氏軍役帳」では、鉄砲の割合は約5.7%。北条氏の場合は、鉄砲が38%、弓が3.4%である。北条氏も弓から鉄砲への転換を図っていたのだろう。
現存する軍役定書を見る限り、武田氏が軍役として家臣に賦課し、準備させた鉄砲の数量は、東国大名の中では北条氏には及ばないが、上杉氏よりも割合が多いし、言われているほど導入率は低くなかったのである。むしろ、家臣に対して鉄砲の装備を積極的に行うよう繰り返し指示しているほどだ。そしてそれは知行貫高に応じた「知行役之鉄砲」という原則だったのである。




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