織田氏・武田氏の鉄砲装備 ~東国鉄砲事情~ |
「北条五代記」によれば、関東に鉄砲が伝わったのは天文年間(1532~1555)であったといい、小田原の玉瀧坊という山伏が、和泉国堺で鉄砲の存在を知り、一挺購入して北条氏綱に献上したのだという。しかもしれが、唐国から永正7年(1510)に初めて渡来したものだと記されている。このとき氏綱は、関東に比類ない宝だとして秘蔵し、その後関東の武士の間では、武家の宝とするのが流行したという。つまり実戦に投入されることはなかったというのである。その後、氏康が堺や根来、岸和田から鉄砲鍛冶を招き、生産するようになったという。このほかに、信濃国でも永正7年に渡来した鉄砲を村上義清が五十挺保持しており、武田信玄と対戦した上田原の合戦に際して、初めて投入したという。(甲陽軍鑑による)いずれも、中国から伝来した鉄砲が存在したということになっている。
中国にも伝えられていたはずのポルトガル式の南蛮鉄砲が、何故か中国ではさほど普及せず、むしろ文禄・慶長の役を契機に、日本から逆輸入のような形で伝播し、中国古来の火器をたちまち駆逐していったようである。中国の明には、火器として大砲のほかに、島銃(鉄砲)、三眼銃などがあり、日本の火縄銃に相当する島銃は、銅を原料とした鋳造であったため、5~7発を発射すれば銃身が焼き付いて発火し、最悪の場合破裂の恐れがあったという。 ところが日本の火縄銃は、鍛鉄製であったため、その心配がなく、連射の問題や射程などあらゆる点で、中国火器は日本の火縄銃の相手ではなかった。そのため明朝も、16世紀には島銃の製造法を銅鋳造から鍛鉄法に切り替えたという。 結局中国鉄砲が戦国初期に日本に伝来していたのに、さほど普及しなかったのは、北条氏綱のように珍重品で入手が極めて困難であることから、贈答品や自らの財力や武勇を示す威信財としてのみ扱われたためであり、さらに一挺が高価な割には連射が利かず、場合によっては破損してしまうという脆弱性が費用対効果として問題になったためではなかろうか。しかしながら、ヨーロッパ産の火縄銃が日本に伝わり、それが急速に広まったのは、中国産の火器がすでに伝来、使用されていた下地があってこそだったともいえよう。
また、天正2年(1574)4月、徳川家康は軍勢を率いて遠江国犬居谷に攻め込み、武田方の有力国衆天野藤秀を攻略しようとしたが、折からの大雨で行軍に難儀し、兵糧も乏しくなったため撤退することとなったが、藤秀率いる軍勢に追撃されて敗北を喫した。その際、藤秀に味方して徳川軍を苦しめた人々の様子が「三河物語」に記されている。 それによると、天野藤秀は、気多郷から追撃に出陣し、途中、天野方の樽山城・光明城よりも兵が出て徳川軍の先回りをして待ち構えた。さらに周囲の村の郷人たちも天野方に加わり、峰や谷、山の端、樹木や草の陰から突如現れては矢を放ち、鉄砲を撃ち掛け、大声をあげたという。その村々の郷人は、いずれも山の民であり、猟師としての性格を持っていたのである。彼らは弓矢だけではなく、鉄砲も保持しており、狩りで使用する道具を、合戦にあたっては敵を襲撃する武器として使用していたことが確認できる。 この他にも旧武田領国の甲斐では、天正19年(1591)に豊臣秀吉大名の加藤光泰により鉄砲禁止令が出されたが、熊や猿、鹿を撃つ猟師に限って所持が認められ、鉄砲所持の安堵状などが発給されていた。これも猟師に鉄砲が普及していたことの証拠であろう。 このように、武田領国内では、山で生きる猟師ら山の民の間で、早くから弓矢を凌ぐ道具として鉄砲が普及していたのであり、武田氏の軍事力は、こうした狩人らをも裾野に置いており、いざというときには合戦に動員していたのである。 |