織田氏・武田氏の鉄砲装備
~鉄砲軽視は事実か?~
 

 通説は事実か?
通説によると、武田氏は鉄砲の整備に不熱心であったが、長篠敗戦をきっかけに急きょそれを改めたということになっている。だが、武田氏と鉄砲に関する研究はほとんど存在しない。
渡邊世佑氏は、前述の説を展開している。戦国期の東国でも広く鉄砲が使用されていた形跡があり、武田氏もその例に漏れないが、戦場で優越した効果を上げたことがわかる記録が無い。武田氏には鉄砲隊はなかったとみられ、多くは単独の鉄砲使用で狙撃に用いられた。これは鉄砲の利用よりも武田信玄の作戦や戦術が優れており、その勢力も偉大であったため、これにのみ依存していたことが背景にある。この点を後継者武田勝頼もそのまま引き継ぎ、鉄砲の有効な使用法を検討しなかった。武田氏の鉄砲に対する態度は、信玄の晩年になっても軍法を見ると鉄砲はむしろ軽んぜられ、鍛錬を怠っており、勝頼時代の軍法でも変更されることはなかった。勝頼が鉄砲の有効利用を規定した軍法の創設に踏み切らなかったのは、信玄以来の勢力と宿将・勇将が多数健在であったため、これを恃みにしていたこと、勝頼自身が天正2年(1574)以来高天神城攻略などもあり、信玄以上の戦上手を自認するようになっており、軍法や作戦・戦術・武具の選択ということに全く注意を払わなかったためである。武田氏の鉄砲使用は、長篠敗戦を契機に劇的な路線転換が行われた結果、ようやく奨励されるようになったが、すでに手遅れであった。
以上のような指摘がされ、現在でも根強い通説的理解である。
 武田氏の後進性の真偽
奥野高廣氏は、弘治元年(1555)の第二次川中島合戦で、武田信玄が鉄砲衆を投入した事実から、武田氏が新兵器である鉄砲の整備に着手したことは認めるが、それは「ある程度」という限定的なものだったと指摘した。その根拠としては、武田氏は、信玄期に自ら鉄砲の購入、製造を積極的に行った形跡がなく、鉄砲や火薬・銃弾などの装備は、家臣たちの地力にゆだねるというのが原則で、それは彼らにとって重い負担となっていたはずである。また、国衆に加勢として「鉄砲兵」の派遣を依頼している。これは武田氏自らが鉄砲を多数揃えていないので、旗本鉄砲隊が未整備であるとの主張であろう。そればかりか、信玄は最後まで軍役定書に鉄砲の具体的な数量指定を明記せず、おそらく口頭の指示にとどめるといった消極性を示した。また、後継者の勝頼は、長篠敗戦を契機に鉄砲不足の解消を家臣に呼びかけるが、鉄砲と火薬そのものの購入、製造、確保は彼らの自弁にゆだねる方針を変えなかったため、数量には限界があった。結局、武田氏は旗本鉄砲足軽隊を編成し、日夜訓練を重ねるべきであったのにそれをしなかった。そのうえで奥野氏は「甲斐武田氏の鉄砲に対する政策は、信玄も勝頼もその使用に積極さがなかった」としている。
果たしてこの通説は正しいのだろうか?




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