織田信長が長篠合戦で使用した鉄砲とは、どのような大きさのものであったのだろうか。当時使用された鉄砲の現物は残されていないが、それを知る手がかりはある。長篠古戦場から発見された鉄砲玉である。現在確認されている鉄砲玉は、長篠決戦場と長篠城址で合計25個であり、現物が残されているのは23個だという。しかもそれらは、
理学分析が行われているという。
このうち、決戦場跡で発見された鉄砲玉は、織田・徳川軍のもので、長篠城址で発見されたものは武田軍のものではないかと思われるが、明確な区別は難しいようである。このなかで、長篠決戦場から出土した織田・徳川軍のものと思われる鉄砲玉から推察する。
火縄銃は、口径と鉄砲玉の比率が適正でなければ、その威力に大きな差が出てしまう。すなわち、鉄砲玉が口径の大きさに近すぎると鉄砲玉が詰まりやすくなり、最悪の場合は暴発する危険がある。逆に小さすぎると、火薬の反発による推進力が弱まり、射程が短くなってしまう。そのため、鉄砲玉の大きさは口径との調整が重要であったとされ、曽於比率は、銃の口径に対して、1対0.9805(98%)が適正であった。
長篠決戦場出土鉄砲玉の現状を基に鉄砲筒の大きさを推計してみると、織田・徳川軍が装備していた火縄銃は、二匁五分筒から三匁筒の者が多くを占め、小さい物では一匁五分筒から二匁筒、大きいものでは五匁五分筒というものがみられる。このように、織田・徳川軍が装備していた鉄砲の大きさはまちまちで、決して統一された規格の物ではなかったことがわかる。このことは、信長による大量注文生産に基づく旗本鉄砲衆や鉄砲衆編成という大方のイメージに再考を迫る事実だといえる。つまり、「諸手抜」の鉄砲、信長の家臣たちがここに所持していたものを寄せ集めた事情を反映しているのではないだろうか。彼らは、個々の事情(財力、それに応じて入手できた火縄銃の事情など)のもと、火縄銃を購入したのであろうから、その口径がまちまちになることは当然避けられない。しかし合戦場ではそうした大きさは一切問われず、同じ火縄銃という括りで鉄砲衆が編成された。そのため、おそらく個々の火縄銃ごとに、銃弾は用意されねばならず(あらかじめ大きさの相違する鉄砲玉を複数、大量に用意することは困難)、また消費される弾薬の量も口径によって当然相違したであろう。このことはまた、弾込めにかかる時間が、口径の違う火縄銃ごとに若干相違したであろうことを想定させるものである。これが鉄砲の集団射撃法にどのような影響を与えたかは、残念ながら定かではない。
しかし、三匁筒が最も多くを占めたという推計値は極めて興味深いものがある。それは、戦国大名越前朝倉氏の本拠地一乗谷における鉄砲鍛冶の遺構から出土した鉄砲玉は、二匁五分筒ないし三匁筒と、一二匁筒ないし一三匁筒が多く、それが最も多く製造されたとみられるからである。ただ、千石・織豊期の鉄砲の玉目は実に多様であったことが指摘されており、傾向として三匁前後に集中することが推定されるが、結局は大小様々な口径の火縄銃が、長篠合戦に投入されたと結論付けられる。
|