織田氏・武田氏の鉄砲装備 ~鉄砲入手方法~ |
まず、織田氏と国友村との関係が明確になるのは、浅井氏滅亡後の天正2年(1574)8月の事である。戦国期の国友村で鉄砲が製造されていたことは間違いがない。この村が位置する琵琶湖の北部は、平安期から製造に携わった鉄穴師や鍛冶が広く分布していたことが判明しており、こうした技術集団が集まった地域の特性を裾野に、国友村では鉄砲製造が始まったのであろう。現在、戦国期の国友村で鉄砲が製造されたことを確実に示す史料としては、戦国大名朝倉氏が出羽国檜山城主下国愛李に贈った品物の中に「鉄砲壱挺国友丸筒」とあるのが初見である。これは、朝倉義景が下国氏に先代と同じく友好を結びたいと願い、家臣一源軒宗秀に書かせた手紙の一節に見られるものである。そのきっかけは、朝倉氏家臣宗秀と、下国氏家臣砂越入道也足軒宗順が、越後府中でしばしば出会って会談し、両氏の旧交について話が及んだことにあった。これを宗秀帰国後に聞き知った義景が、様々な特産物を贈って通好を復活させようとしたのである。この文書は年号の記載はないが、おそらく天文末から弘治初年ごろのものとする説がある。しかし、朝倉・下国両氏の家臣が出会って越後府中で会談したというのは、永禄4年(1561)川中島合戦の際に上杉謙信の援軍として両氏が家臣を派遣したことと関係しているので、実際には永禄5年ころではないか。注目すべきは、鉄砲を「国友丸筒」と製造場所の地名を冠して呼称していることで、国友村産の鉄砲は当時既にブランド化しており、近隣諸国で著名であった可能性がある。しかし、それを即座に信長と結びつけることはできない。当時国友村は、浅井長政の領域に所在し、敵国からの注文に応じられる状況になかったとみられるからである。朝倉氏は同盟関係にあった浅井氏経由で入手したとみて間違いがない。信長が国友村に鉄砲を発注できるとすれば、天正元年9月の浅井氏滅亡後の事であろう。
また信長は、天正元年(1573)3月、武田信玄の西上、浅井・朝倉連合軍の攻勢という危機的状況に直面した際に、鉄砲・玉薬・兵糧の大量調達を指示しており、金子1,2000枚で調達できれば安いものだと述べている。このとき調達を信長から命じられているのは、細川藤孝と荒木村重である。彼らは山城に在陣しており、この時に調達できるとしたら京都か堺からであろう。また、細川藤孝宛の書状の別のところで、摂津中島城を守っていた細川昭元が、三好義継・松永久秀に攻められ、城を明け渡して退去したことを、信長が残念がっている部分がある。このとき、昭元が逃れたのが堺であった。この点からも、堺での購入を視野に入れていたと考えられなくもない。 いずれにせよ、信長は大規模な合戦を想定して、大量の鉄砲・玉薬・兵糧調達を多額の金で購入しようとしていた訳である。その需要にすぐさま応えられる京都や堺を擁する畿内の物流こそ、信長の鉄砲装備を支えていたとみて間違いなかろう。
また、信長の軍事力を支える尾張・美濃の土豪層にも、鉄砲の保有が認められる。しかし、武田・北条氏と違い、織田信長が家臣に軍役賦課を命じた軍役定書などは一切残されていない。残っていないだけなのか、そもそも出されていないのかも不明である。そのため、家臣の知行貫高もしくは石高に対して、軍役人数と装備を指示した内容を把握できない。そのことが、織田信長の軍事力編成に関する研究がまったくないことの原因の一つでもある。だが織田軍の鉄砲衆は、信長自身が装備した旗本鉄砲衆よりも、家臣たちが装備し参陣してきた軍役が間違いなく裾野として広く、それを「諸手抜」で編成したものが、織田軍鉄砲隊の中核となったのであろう。そして個々の家臣や土豪も、商人などを通じて購入したのであろう。その際に、やはり畿内近国周辺に位置する織田領国は、軍事物資の流通と極めてアクセスしやすく、購入は武田氏に比べて容易だったのであろう。 |