織田氏・武田氏の鉄砲装備
~長篠合戦時の鉄砲衆編成~
 

 実際の編成
信長は、長篠合戦でどのような鉄砲衆を編成していたのであろうか。「信長記」によれば、信長は自身の旗本鉄砲を少なくとも五百挺装備していた。信長は、その旗本鉄砲衆を酒井忠次率いる別動隊に付属させ、鳶ヶ巣山砦攻撃に向かわせている。では、決戦場に投入された三千挺に及ぶ大量の鉄砲衆はどのように編成されたのか。
信長は実は、当時山城国に残留し石山本願寺の動向を監視していた長岡(細川)藤孝に書状を送り、鉄砲兵と玉薬を至急信長のもとへ派遣するよう要請していたのである。藤孝は、信長からの指示を受けて直ちに家臣らに準備を命じている。
「細川家記」によると、信長の要請を受けた藤孝は、鉄砲足軽百人、小頭を添えて長篠に派遣した。現地では、細川衆は信長家臣の塙九郎左衛門尉直政の配下に編成されたという。
また、「多門院日記」によると、奈良の筒井順慶も信長の要請を受け、鉄砲衆を派遣している。筒井順慶が派遣した鉄砲衆は五十人で、それは「合力」と明記されている。だが、織田軍への派遣を指名された五十人は皆困り果て、妻子に形見を与えて岐阜に向かったといい、その姿は哀れを誘ったと記されている。
実際には史料に残されていないだけで、もっと多くの家臣に対して、鉄砲衆の派遣が信長から要請されていたことであろう。長岡・筒井両氏だけでも、合力鉄砲衆は百五十挺に及んでおり、織田領国全域に動員をかけたとすれば、相当多くの鉄砲が集まったことであろう。信長が大量に鉄砲を集めることが可能だった秘密は、武田氏をしのぐ両国の規模にあったといえる。
信長は、長篠に帯同せず各地に残留させた家臣たちからの合力鉄砲と、参陣している諸将の部隊から鉄砲隊を引き抜き、臨時に鉄砲衆を編成した。こんことは「甫庵信長記」に「兼て定め置かれし諸手のぬき鉄砲三千挺」とあり、事実を正確に伝えているといえる。
 徳川も同様の事情
実際には徳川軍も同じような状況であった。
長篠合戦では、各部隊から鉄砲だけを引き抜いて、三百挺の鉄砲衆を編成し、さらにそれを二手に分けて備えを完成させている。これは徳川軍が、織田軍を真似てその場で実施したわけではない。「三河物語」によれば、元亀3年(1572)12月、三方ヶ原の合戦で敗れた徳川家康は、浜松城郊外の犀ヶ崖まで進出してきた武田軍に一矢報いるべく夜襲を仕掛けている。この作戦は大久保忠世が家康に、このまま弱みを見せては、いよいよ敵を勢いづかせるだけだと進言し、「然らば諸手の鉄砲を御集めなされ給へ、我等が召連れて夜討ちを仕らん」と主張したので、家康が許可したものであった。ところが、大久保忠世が諸隊から鉄砲兵を募ったところ、武田軍を恐れて「諸手を集め申共、出る者もなし」という有様で、「ようやく諸手よりして、鉄砲が二、三十挺計出るを、我手前の鉄砲に加へて、百挺召連れて、犀崖へ行きて、つるべて敵陣へ打込」だという。ここでも、鉄砲衆の編成は「諸手抜」による臨時編成であったことがはっきりわかる。戦国期においては、鉄砲を諸隊から引き抜き、鉄砲装備だけの兵種別に編成することは常態であったと推察される。
 諸手抜による鉄砲衆編成
みてきたように、長篠合戦における織田・徳川両軍の鉄砲衆は、各部隊から引き抜かれたいわゆる「諸手抜」による編成であった。そしてこの編成方法は、信長の家康もこれまでしばしば実施してきたものであり、長篠合戦が最初ではなかった。つまり、長篠合戦での鉄砲衆編成は戦国期の鉄砲戦術としてはごく当然のことで、どこの大名も行っていた常態であった可能性が高い。また鉄砲の大量導入は、信長が浅井・朝倉氏や本願寺との厳しい戦いの中で経験した戦訓に基づき、今までと同じように採用したものであり、対武田のために熟考し捻り出した新戦法なるものではなかったことは明らかである。




TOPページへ BACKします