信長の鉄砲運用について調査した宇田川武久氏によると、「信長記」の記事から述べていることをまとめてみると、信長は若いころより砲術師の橋本一巴に鉄砲を習い、その射撃方法や技術に習熟していた。当初、信長は鉄砲と弓衆を組み合わせて編成しており、「弓鉄砲」とセットで呼称された。天文23年(1554)1月の村木城攻撃で、信長は敵城の狭間に鉄砲の射撃を集中させたが、その時に交代射撃を行わせている。これは、鉄砲を間断なく射撃させる戦術であり、長篠の戦い以前にこうした射撃法が当時の砲術の常識であった可能性が高く、新戦術として評価することができない。永禄元年(1558)に橋本一巴が「二つ玉」を用いて鉄砲を撃っている。これは現在で言う散弾のことで、こうした砲術がこの時期すでに確認できることは重要である。信長の上洛を境に、鉄砲装備が増え、使用が活発化している。永禄12年に伊勢北畠氏を攻めた際、馬廻衆の中に弓鉄砲衆が確認され、長篠合戦時には「御馬まはり鉄砲五百挺」とあることから、鉄砲旗本衆の編成が行われていた。また信長は、天文23年から永禄12年の間に、弓と鉄砲を分離し、鉄砲のみで編成される鉄砲衆を編成したと推定される。天正2年(1574)と同6年には、大鉄砲(大筒)の導入が見られ、敵城の塀、櫓などを破壊するために使用されている。
このような宇田川氏の指摘はおおよそ妥当と思われる。弓衆と鉄砲衆の分離が進んでいたということについては一考の余地が残されている。武田氏も弓衆と鉄砲衆は別々の分離だったが、合戦時は共同で編成されるのが常態だった。
「信長記」の記述を見ても、実は織田軍も同じで、弓衆と鉄砲衆は別々の編成になっており、ときにはそれぞれ単独で、あるいは共同で合戦に参加しているように読める。鉄砲衆をどのように作戦に投入し、運用するかはケースバイケースであったのだろう。実は長篠合戦でも、鉄砲衆は信長旗本の御弓衆の加勢を受けて、武田軍と戦っている。
村木城攻めの、信長が実施した鉄砲の射撃法については、鉄砲を取り換えながら射撃するのは単なる交代ではなく、銃手はそのままで、後方に控える数人が弾込めして手渡すという「鳥打ち」「取次」という方法であった可能性が高い。この「交代射撃法」が当時の砲術の常識だったのだろう。火縄銃の弱点は、弾込めに時間がかかること、雨では使用できないことの二つであった。雨で鉄砲がつかえないのはどうすることもできないが、弾込めに伴う時間のロスを補う工夫が、かなり早い時期からあったのは間違いなさそうである。そしてこれは、信長の新発想でも、戦術革命でもない。
鉄砲衆の編成方法について検討する。注目されるのは、元亀元年(1570)6月、撤退しようとする信長軍を、浅井長政の軍勢が追撃してきたため、信長は殿軍を編成しこれに対抗したが、それは「諸手之鉄砲並御弓之衆」「諸手之鉄砲五百挺」であったと記録されていることである。この「諸手之鉄砲」とは、諸隊の部隊から選抜して編成した鉄砲衆の事を指す。天正9年(1581)6月、因幡国で毛利軍と戦った羽柴秀吉が、二万余騎の軍勢の中から、数千挺の弓と鉄砲を選抜して編成したとあるのも同様である。
このように、信長の鉄砲隊とは、彼に直属する旗本鉄砲衆と、各武将がそれぞれ保持する鉄砲とに区分され、必要に応じて各武将から鉄砲兵を提出させ、臨時編成したものが「諸手之鉄砲」である。つまり、信長の保持する鉄砲隊はすべてが彼に直属する旗本鉄砲衆ではなかったことがはっきりする。信長が独自に保持し、編成した旗本鉄砲衆の規模は明らかではないが、長篠合戦ではそれが大きな役割を果たしていない。彼ら旗本鉄砲衆五百は、鳶ヶ巣山砦攻撃部隊の酒井忠次に付属されており、決戦場には姿が見えない。したがって織田軍鉄砲衆の主力は、「諸手抜」による臨時編成の鉄砲衆だったようだ。
「信長記」の記事を見ると、信長は石山本願寺との戦争に伴い、鉄砲を大量に戦場に投入し始めている。これは、本願寺が紀州雑賀衆などの支援を受け、大量の鉄砲衆を編成し、織田軍と対峙したことが影響している。信長も、本願寺に対抗するために鉄砲を大量に装備しなければならなかったのである。元亀元年(1570)9月の合戦では、織田軍と本願寺軍双方が打ち合う鉄砲の音が日夜響いたと記録されている。このことは、鉄砲をできる限り大量に戦場に投入するという戦術は、信長は本願寺との合戦の経験から学んだといえよう。こうした鉄砲を大量に装備して、激しく撃ち合うという合戦は、東国ではまだ見られなかった。もちろん武田氏も、合戦場で敵軍に鉄砲を撃ちかけるという戦法を知らなかったわけではなく、むしろ鉄砲を前面に出して戦闘を行っていたが、その数量が少なかった。織田や本願寺のように、東国大名たちの軍勢では、千挺を超える規模のものは確認できない。合戦における鉄砲装備と運用という経験則は、畿内における信長と本願寺の戦場がその嚆矢であったと推察され、いわば「西高東低」だったわけであり、織田氏と武田氏との差は、単に数量の差、経験の差であったところに根差していた可能性が高い。
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