天正壬午の乱
 ~北条氏に従属~
 


 北条氏の勢いに
上杉氏に従属した昌幸であるが、それも長くは続かず、7月9日には何と北条氏に従属を申し出たのである。
昌幸のこの意向は、重臣の日置五左衛門尉を通じて、北条軍の先陣を務めていた北条氏照・氏邦に取り次がれ、それを受けて両者を奉者とする北条家朱印状が出され、日置にはその功績への功賞として西上野箕輪領小鳥郷が与えられている。
この時昌幸は、上杉氏に従属すれば上野南部から北条氏の攻撃を受け、北条氏に従属すれば信濃北部・越後から上杉氏の攻撃を受けてしまうという、ジレンマに陥っていたのだろう。それにしても、昌幸が従属先を短期間で変えた判断をした理由は何であろうか。それは、北条氏の進軍の勢いが急だったからである。
北条氏は滝川は信濃に退去した翌日には、佐久郡の国衆への味方化をすすめていたが、それより早く神流川合戦の時に、すでに埴科郡・更級郡の国衆屋代秀正・室賀正武にも従属を働きかけて、川中島四郡を両人に与える約束をしている。北条氏は、西上野を制圧したのちは北信濃に進軍し、川中島四郡の制圧を目標にしていたのである。昌幸に隣接していた室賀氏・屋代氏がすでに北条氏従属の姿勢を示しており、北条氏が信濃に進軍すれば、昌幸の領国の真田領・海野領に侵攻してくることになるが、その際、上杉氏から援軍を得られるかというと、この時上杉氏は安曇郡・筑摩郡を巡って木曽義昌との抗争に力点を置いており、援軍を期待できる状態ではなかった。
こうした情勢下では、北条氏が信濃に進軍してくると、潜在的に対立関係にある室賀氏をはじめ、他の北条氏に従属した小県郡・佐久郡国衆からも攻撃を受けることになる。これは滅亡をももたらしかねない重大な危機である。従って昌幸は、その危機を回避するため、北条氏が信濃に進軍してくる前に北条氏に従属しておくことが適切と判断したのであろう。
 北条軍、信濃へ進軍
7月12日、北条氏直が碓氷峠を越えて、信濃小県郡海野領に進軍してきた。先陣はそれより以前に信濃に進軍していたであろうから、政に北条氏が昌幸の従属を認めた9日頃のことであったかもしれない。
翌13日には、昌幸をはじめ香坂氏・塩田氏など、北条氏に従属した信濃国衆13人が、北条氏直のもとに出仕した。これに伴って、彼らは北条氏に忠節に証として人質を指し出すことになる。昌幸ももちろんであった。昌幸からの人質は26日のうちに出されており、北条氏はそれに尽力した昌幸の宿老矢沢頼綱と重臣大熊五郎左衛門に、その功績への功賞としてともに信濃高井郡井上内で、矢沢には一千貫文、大熊には七百貫文の所領を与えることを約束している。但し同所は上杉氏の制圧下にあったから、それは上杉領を経略したうえでの約束であったことは言うまでもない。ちなみに、この時だされた人質が誰であったかは不明である。
北条軍は、すぐさま上杉方の拠点となっていた海津城攻撃に向けて進軍したらしい。そこでは、上杉方になっていた武田氏の旧臣加津野昌春(真田信尹)が、更級郡牧島城に在城しており、それを引き取ろうとしたらしい。
 北条軍、信濃攻略失敗
加津野昌春は、昌幸の実弟であった。昌幸とともに上杉氏に従属したが、その後、昌幸が北条氏に従属したため、この時には異なる立場を取っていた。しかし、ここで加津野昌春が在城する牧島城が北条氏に引き渡されるという策略がとられていることからすると、その背後には昌幸の働きかけがあったとみてよいだろう。昌幸が、北条氏の川中島四郡経略にあたって、その遂行に尽力していた様子がうかがえる。
また筑摩郡・安曇郡では、信濃木曽郡を本領とし、織田氏から両郡を与えられた木曽義昌と、上杉氏との間で、その領有を巡る抗争が展開されていた。そして木曽義昌も、13日には北条氏に従属の意向を示してきた。木曽義昌が北条氏に従属したのは、筑摩郡の拠点の深志城を、すでに上杉方の小笠原洞雪斎に攻略されていたから、それへの対抗のためとみられる。上杉氏と対戦していく北条氏に味方することによって、筑摩郡の奪回を狙っていたのである。
所が北条氏の川中島四郡経略は、結果として失敗に終わり、氏直は7月19日頃に川中島地方から後退してしまった。その後は、佐久郡の経略に転じて佐久郡小諸城を拠点に、徳川方であった春日城の芦田依田信蕃攻めを行っていた。これはおそらく、他の佐久郡国衆からの要請を受けてのことと思われる。




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