天正壬午の乱
 ~上杉氏に従属~
 


 滝川一益逃亡
一方、小諸城に在城していた滝川一益は、6月26日に同城を出立して、京都へ向かった。既に佐久郡や諏訪郡の国衆までもが北条氏への従属に靡きつつあったから、もはや信濃二郡の領有も断念した結果であろう。
しかし、滝川にとっての懸念は、無事に信濃を通過できるかどうかにあっただろう。この頃、甲斐・信濃諏訪郡を管轄した河尻秀隆は一揆によって殺害され、信濃伊那郡を管轄した毛利長秀と北信濃川中島四郡を管轄した森長可は、領国を放棄して京都に向けて帰還しており、旧武田領国に配置された織田氏武将として、いまだ領国に留まっていたのは滝川一益だけになっていたからである。
そのため滝川は、通行の安全を確保するための担保として、小県郡・佐久郡の国衆からの人質については、上野国衆の対応とは異なり、返還せずにそのまま同行させるのである。もちろんそのなかには、昌幸からの人質であった母河原氏と次男弁丸(信繁)も含まれていた。
滝川は、佐久郡の芦田依田信蕃、木曽郡の木曽義昌らの協力を得て、信濃を横断して美濃へ抜け、7月1日に本拠の伊勢長島への帰還を果たすことになる。小県郡・佐久郡国衆からの人質は、信濃から美濃へ抜ける際に木曽義昌に預けられるのである。このことは、その後の信濃情勢において一枚のカードとなっていく。
 上杉景勝へ従属
滝川一益が領国から退去してしまい、西上野には北条氏の進出が見られていた。このような状況を受け、昌幸は越後の上杉景勝への従属を選択した。ただしこれについては、具体的な経緯などは不明であり、わずかに翌天正21年に景勝が矢沢頼綱に送った書状に、「真田安房守去年当方に属し」という文言が見えていることによって、昌幸が上杉氏に従属したことがあったことが確認される程度に過ぎない。
問題はその時期であるが、昌幸はその後、北条氏、徳川氏に従属していくことからすると、上杉氏に従属した時期は滝川が退去した後で、北条氏に従属する以前のわずかな期間にしか当てはまらない。
ここで注目されるのが、6月29日に上杉景勝が遠山丹波守に、沼田城在城の功績を賞し、それへの功賞として信濃海津領八幡松田跡を所領として与えていることである。遠山は武田氏の旧臣で、元は遠山右馬助を称していた人物と推定され、昌幸には妹婿にあたっていた。この遠山が上杉氏家臣であれば、この時に上杉氏が沼田城を接収し、家臣を在城させていたということになるが、そうした形跡は全く見ることはできない。そうすると遠山は、昌幸との姻戚関係をもとに、武田氏滅亡後は昌幸に従って、その指示によって沼田城に在城していたと考えられる。そしてこの遠山に、景勝が所領を与えているのは、その主人である昌幸が、既に景勝に従属していたからとみられる。
 機を見るに敏な昌幸
これらのことから、昌幸は6月29日以前には上杉氏に従属していたとみてよいであろう。その上杉氏は、本能寺の変の情報を知ると、すぐさま北信濃の経略に取り掛かっており、20日までに海津城をはじめとした拠点を掌握し、川中島四郡(水内、高井、更科、埴科)の制圧をたちまちに遂げていた。そして24日には景勝自身が信濃に出陣し、やがて海津城まで進軍してくる。
上杉氏が制圧した川中島四郡は、昌幸の領国のうち真田領と吾妻領の北部に接していた。すなわち上杉氏の川中島四郡への進出によって、昌幸の領国の北部は俄かに上杉氏の勢力に接することになったのである。
昌幸が上杉氏に従属したのは、滝川一益が小諸城を出立した26日よりもあとのことであろう。そして29日には従属していた。26日の時点で、既に川中島四郡が上杉氏に制圧されていたことからすると、昌幸は滝川の出立後、すぐさま上杉氏に従属したのではないだろうか。あるいは滝川がまだ小諸城に在城しているときから、既に上杉氏に接触していたかもしれない。さすがに滝川がいる間はそれを表沙汰にはできなかっただろうから、滝川の出立後にその態度を明らかにしたと考えるべきかもしれない。
いずれにせよ、機を見るに敏な昌幸である。




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