天正壬午の乱 ~北条氏の侵略~ |
神流川合戦での滝川一益の敗戦によって、昌幸は新たな対応を迫られることになった。一益が小諸城に移った21日、昌幸は吾妻衆湯本三郎右衛門尉に、岩櫃城に着城して仕置にあたるように命じ、同城在城にともなう堪忍分として、吾妻郡両中条を与えている。これにより、昌幸が吾妻領・沼田領の確保を図っていたことがわかる。同時に、一益が上野から退去してしまった以上、昌幸はそれらを独自の領国として確立させようとしていたとみられる。なお、この後、湯本氏と共に、譜代家臣の河原綱家も岩櫃城の城将としてみるようになるので、この時に昌幸は、河原綱家にも同城への在城を命じたのではないかと推測される。
ちなみに、昌幸の朱印状の初見を、卯月26日付で猿ヶ京衆の田村角内に宛てた朱印状の年代を天正8年に比定して、それとする見解もあるが、同年に比定する決定的な理由は見られず、またこの朱印状は署名もなく、朱印判が捺されたのみの薄札なものである。田村氏に関しては、その天正8年6月に、昌幸を奏者にしてえ武田氏から朱印状が出されていて所領が与えられているから、彼は武田氏直臣の立場にあった。そうした同僚に対して、以下に昌幸が上司に当たったとはいえ、署名のない朱印状を出すことはあり得ない。これは田村氏が昌幸に被官化した後に出されたものとみるのが適切である。従って昌幸の朱印状の初見は、先の宝蔵院宛のものとみて間違いないようだ。 昌幸は、それ以前の武田氏段階では、朱印状は発給していない。出した文書は、全て花押を据えたものであった。それがこの6月10日の時点になって、朱印状を出すようになっているのである。 朱印の使用には一般にはいくつかの理由が見られるが、昌幸の場合は、朱印を使用できる家格あるいは政治的地位の獲得によると考えられる。ちょうど織田氏の従属下にあったときのことからすると、それは織田氏に直属する国衆としての地位から来たものと思われる。そして先の6月21日付で湯本氏に宛てた書状にも、朱印が捺されていた。これも、昌幸が湯本氏を家臣として扱っている指標になるとともに、吾妻領支配にも使用されたことを示している。 このように昌幸は、真田領から沼田領までの領国支配において朱印を使用していくのである。朱印状の存在は、それらを領国とする国衆として確立した昌幸の地位を示すものと理解される。
これによってこの時までに、高山市や大戸浦野氏・白井長尾氏らが北条氏に従属したことがわかる。それだけでなく同日に氏照・氏邦は、北条氏に従属を申請してきた信濃佐久郡の国衆野沢伴野氏に、本領安堵・新恩宛行が認められたことを伝えており、早くも信濃佐久郡の国衆にも従属を呼びかけている。 さらに25日には、氏邦の宿老斎藤定盛が、信濃諏訪郡の国衆諏訪頼忠の宿老千野昌房に書状を送って、近日中に信濃に進軍すること、所領安堵の要求についてはそれを叶えるとの氏邦の証文を送ったことを伝えている。 既に諏訪郡の諏訪氏も、北条氏への従属を申請してきた。また29日には北条氏は、上野甘楽郡一宮社に禁制を出し、安中寮への伝馬賦課について氏邦に指示しているから、既に甘楽郡の国衆小幡氏や碓氷郡の国衆安中氏も北条氏に従属していたことがわかる。 こうして北条氏は、上野中央部に進軍すると、小幡氏・安中氏・大戸浦野氏・白井長尾氏らの国衆を従属させた。おそらくその間に位置した倉賀野氏・和田氏・箕輪内藤氏も、同様に北条氏に従属したとみられる。即ち西上野の国衆のうち、昌幸以外はすべて北条氏に従属したのであった。そして新たに編入した西上野に対しては、氏邦がその支配を管轄することになった。 氏邦は7月5日に、箕輪領極楽院に対して寺領を安堵している。これが、氏邦による西上野支配の開始を示すものとなる。氏邦は、箕輪城を支配拠点としてその支配にあたっていった。 |