天正壬午の乱
 ~武田氏の滅亡~
 


 武田氏滅亡
真田昌幸の生涯において、最大の転機になったのは、天正10年(1582)3月の主家武田家の滅亡であろう。主家が滅んだことによって、昌幸は否応なく自立した国衆として確立し、さらには大名への道を歩んでいくことになる。
武田氏滅亡の過程は、その年の2月1日に、信濃木曽郡の国衆で、武田勝頼には姉婿にあたる木曽義昌が武田氏から離反し、織田氏に従属したことに始まる。
木曽氏は武田領国内で最も西に位置し、対立する織田領国に接していた。その木曽氏が織田方に与したことにより、織田氏による武田氏攻めが進められていった。そして3月11日、勝頼は甲斐東郡田野で滅亡を遂げるのである。
昌幸は、この年の正月下旬の時点では、武田氏の新たな本拠の新府(韮山市)にいたとみられるが、その後はおそらく吾妻領の岩櫃城にあって、北条方の侵攻に備えたのではないかと推測される。
その北条氏は、既に天正8年ころから織田氏に服属していた関係にあったので、このときの織田氏による武田氏攻めにおいても、その指示を与えて武田領国に侵攻していった。そして2月21日に、北条氏邦が武田方の西上野への侵攻を開始している。同時に、西上野の武田方宿将の服属を進めていった。
こうした状況を受けて昌幸は、宿老の矢沢頼綱を沼田城に派遣して、3月6日に沼田領薄根の所領について、四十貫文分を残し、それ以外は沼田城在番衆に配分するよう命じている。また牢人衆については、沼田城に備えられていた御城米を扶持給(俸禄)として支給することを支持している。
昌幸は沼田城代として、沼田領における所領や沼田城の城米を管理していたが、ここで昌幸がそれらを在城衆や牢人衆へ配分したのは、自身への引き留めを図ったものだという見方もできる。自身による沼田領確保のためともいえ、ここに早くも自立化の動きを見ることができる。
 北条氏へ臣従
しかし、3月7日には早くも織田軍の別動隊であった織田信房(信長四男)の軍勢が上野に進軍してきた。これを受けて西上野において最大の国衆であった小幡氏が織田氏に服属した。そして10日、織田方になった小幡氏は、国衆安中氏をその本拠の安中城に攻めている。これによって安中氏も織田氏に服属したとみられる。その翌日の11日に、甲斐では武田勝頼が滅亡しているが、上野における織田氏・北条氏の侵攻は続けられていた。
そのようななか昌幸は、敵対していた北条方の八崎長尾憲景を通じて、氏邦への接触を図っている。それを受けて12日に氏邦が昌幸に初めて書状を送っている。その書状で氏邦は、武田氏の西上野支配を管轄していた箕輪城代の内藤昌月や、赤坂城の国衆和田氏はすでに北条氏に従属してきていること、また、その内藤昌月から昌幸に対して勧誘があるだろうということを伝え、北条氏への服属を促している。
織田軍の上野侵攻を受けて、昌幸は北条氏に服属することを選択したようだ。その氏邦は、西上野中央部への進出を進めており、14日には和田氏の赤坂領内の天王社神主に同職を安堵して、従属国衆領に対する支配を開始している。
それと同じ14日、昌幸は矢沢頼綱とその嫡子頼幸父子に、今回における沼田在城の功績に対する功賞として、信濃海野領内一千貫文を与えている。また同日に、昌幸は吾妻郡草津の土豪湯本三郎右衛門尉に、昌幸への忠節を遂げたことへの功賞として、同じように海野領小草野若狭守跡を与えている。
ここで注目されることは、武田時代には昌幸の同心であったが、あくまでも武田氏直臣として昌幸と同僚に過ぎなかった湯本氏が、昌幸に忠節を表明し、昌幸はそれに対して所領を与えていることである。これにより、両者の関係がそれまでの寄親・同心の関係ではなく、主従関係に転じていることがわかる。昌幸は、主家武田家の滅亡を受けて、武田氏から委ねられていた吾妻領・沼田領の自己の領国化、すなわち同心衆の家臣化を進めていたことがわかる。
 昌幸のしたたかさ
また、矢沢氏や湯本氏に対して与えている所領が、信濃海野領であることが注目される。武田氏時代には、海野領は昌幸にとって本家筋の国衆海野氏の所領であった。その後、国衆としての海野氏の存在は確認されなくなるので、これは武田氏滅亡に際して、この時までに昌幸が経略し、併合したことが考えられる。そうなった事情は不明だが、こうしたところに、危機的状況の中でも自らの利権の確保を遂げてゆくような、昌幸のしたたかさが垣間見られる。
一方、西上野に侵攻してきた織田信房は、17日には安中城に在城し、服属してきた安中氏を通じて、昌幸の同心であった大戸城の浦野真楽斎に、織田氏への従属を促しており、旧武田方勢力の服属を進めていた。そして21日の時点で織田氏に服属していないのは、「岩下(岩櫃)真田昌幸」「倉内(沼田)矢沢頼綱」「箕輪 内藤昌月」「倉賀野家吉」だけという状況になっている。ただし、彼らはすべて北条氏に服属を表明していた。
しかし織田氏は、西上野国衆のすべてを服属させようとしていたのである。




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