天正壬午の乱
 ~徳川氏に従属する~
 


 吾妻・沼田領の支配を重臣に委ねる
徳川氏と北条氏の対陣が続く中、昌幸の動向はどのようなものだったのだろうか。
確認できるところを見ると、8月8日に家臣宮下孫兵衛に横簗場の管轄を認めており、9月11日には埴科郡東条領の武士とみられる町田外記に「当地」での方向に対する功賞として、海津領などで所領宛行を約束している。これらからすると、昌幸は小県郡での支配を展開し、また川中島四郡の経略を進めていた様子がうかがわれる。
それに対して吾妻領・沼田領については、昌幸は直接支配にあたっていた様子が無い。7月26日に昌幸の家臣丸山綱茂が、沼田衆恩田伊賀守に沼田領向発知を所領として宛がっており、また8月7日に昌幸の家臣と推定される某幸朝が吾妻郡中之条衆の田村千助に、方向に対する功賞として本地を所領として与えている。いずれも所領を宛がったものであり、特に前者の恩田氏は昌幸の直臣にあたっていた。それに所領を宛がっている丸山綱茂の立場は、昌幸の代理としてのものと理解され、恐らく沼田城代のような地位にあったとみることができる。後者の田村氏についても同様と見られ、そうするとこの幸朝も、同様に吾妻城代のような地位にあったとみることができるかもしれない。
いずれにせよ昌幸は、北条氏と徳川氏が対陣している時期には、吾妻領・沼田領支配には重臣に多くを委ねていた状況が伺われる。
 徳川氏への従属を表明
そして9月19日、昌幸は徳川氏への従属を表明することになる。この間昌幸に対しても、家康は従属の誘いを働きかけていた。それに直接当たったのは、上杉方を追放され家康に庇護されていた、実弟の加津野昌春であった。また武田氏時代から旧知である佐久郡の芦田依田信蕃も当たっていたと伝えられる。そしてここにきて昌幸は、それを請けるのである。
これを受けて家康は、上杉方の屋代秀正に対して、昌幸を攻撃しないように要請し、さらにそのことを上杉景勝にも了解させるように依頼している。昌幸が徳川方になるにあたって、上杉方との間で抗争の停止を図ったものになる。このこと自体、従属するにあたって昌幸から出された要望の一つであったかもしれない。
9月28日、昌幸は家康から「本領」の安堵に加え、従属に対する功賞として、上野箕輪領・甲斐で二千貫文・信濃諏訪領を知行として与えられる約束を取り付けている。「本領」とは小県郡真田領・海野領、それに上野吾妻領・沼田領と見てよいだろう。それ以外については、徳川氏がそれらの領域を経略したら、という前提付きのものであった。ただしそのうちの諏訪領については、その後に諏訪頼忠が徳川氏に従ってきたことで、諏訪頼忠に安堵されることになる。
 北条より徳川を選択した理由
こうして昌幸は、今度は徳川氏に従属することになった。その決定には、弟の昌春や旧知の芦田依田信蕃から働きかけられたことも大きな理由ではあったが、それだけで帰属先の変更を判断したであろうか。
昌幸に、北条氏より徳川氏に従属したほうが得策と判断させたものは何か。領国の確保ということなら、上野南部や佐久郡を支配していた北条氏に味方していた方が安全のように思われる。しかし以前、氏邦や白井長尾氏と吾妻領・沼田領をめぐって抗争し続けていたという経緯があったことから、北条氏との関係が必ずしも良好ではなかったのではなかろうか。
そして、その後の昌幸の動向を踏まえると、この吾妻領・沼田領支配の確保に力点があったのではないか、と推測されるが故に、関係が微妙な北条氏より、この時点では利害が反しない徳川氏のほうが従属に値すると判断したのではないかと思われる。





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