天正壬午の乱
 ~沼田領問題の始まり~
 


 織田政権による取り決めと同義であった
こうして北条氏と徳川氏は和睦し、さらに同盟関係の成立も約束された。同時にこれは、本能寺の変を契機にして展開された旧武田領国を巡る戦乱「天正壬午の乱」の終息を意味した。
これによって旧武田領国は、甲斐・信濃が徳川氏、上野が北条氏の領有として取り決められた。しかもこれは、単に北条氏と徳川氏の当事者同士の取り決めに留まらない。和睦成立は織田政権からの指示を受けての事であったから、この取り決めは織田政権によるものと同義であった。
だが、割譲対象となったもののうち、吾妻領・沼田領は昌幸の領国であり、佐久郡も北条方の国衆が割拠していた。そのためか、それらの領有は互いに「手柄次第=自力」によるものとされた。そしてこの吾妻領・沼田領についての、徳川氏から北条氏への引き渡し問題が、後に「沼田領問題」として扱われていくものとなった。沼田領問題はここに発生したのだ。
佐久郡については、徳川方の蘆田依田信蕃によって北条方国衆の併合が展開されていく。11月25日に家康宿老大久保忠世が、北条氏の拠点であった小諸城に着城し、周辺国衆の帰属を進めていった。但し北条氏は小諸城をまだ維持しており、宿老大道寺政繁が在城していた。同城の引き渡しは、家康娘と氏直との婚姻成立か、あるいは昌幸からの吾妻領・沼田領引き渡しが条件になっていたのかもしれない。
 昌幸、引き渡しを渋る
蘆田依田信蕃は、こうした北条方国衆との抗争について、「郡中少々取り合いは内々の事」と、佐久郡におけるそれらとの抗争については内輪の争いと位置付け、「大途の働きは、寒中に武・上の衆ばかりにて、手切れはあるまじく候」と、北条方の軍事行動はあったとしても、年内は武蔵・上野の軍勢だけで、北条氏との間で手切れが生じることはないこと、かりに北条氏と徳川氏と手切れが生じたとしても、それは年明けの事と見通している。つまり、佐久郡での抗争が北条・徳川同盟を崩壊させる懸念もあったことが窺われる。
北条氏はおそらく、昌幸に対して吾妻領・沼田領の引き渡しを求めたであろう。そして当然ながら、昌幸はそれを拒否したに違いない。そのため北条氏も、両領の自力による確保に動いていった。
12月27日、北条氏政・氏直は急に沼田領に向けて出陣した。それに従軍した北条氏照は、旧甲斐衆天野藤秀に、勢多郡森下分を堪忍分として与えている。おそらく当時、ここら辺りが沼田領との境目に位置していたとみられる。
北条氏は白井領に進軍し、吾妻領と沼田領の間に位置した、真田方の群馬郡中山城を攻撃した。昌幸もこれに対抗するかのように、北条方の祢津領の経略をすすめたようだ。閏12月23日、昌幸は家臣宮下孫兵衛に、祢津領・海野領で所領を宛がっている。いまだ祢津氏は健在であったから、これらも経略の上で宛行の約束になるが、こうした約束を出しているところに、昌幸が祢津領の併合を進めていたことが窺われる。
 追い詰められた沼田城
しかしその翌日の24日、北条氏は中山城を攻略した。氏邦は勢多郡橡久保の土豪新木河内守に、中山城攻略の功績として、糸井・森下・久屋・沼須で所領を与えている。中山城は岩櫃城に連絡する街道上にあり、その攻略は両城の分断をすすめるものとなった。また新井氏の在所の橡久保は、沼田城と片品川を挟んだ対岸に位置し、新井氏に与えられたもののうち、沼須・久屋は片品川北岸に位置し、沼田城近辺の地にあたっているから、北条氏は沼田城の至近距離まで侵攻を見せたことが伺える。
しかし北条氏の進軍は、沼田衆の抵抗が強かったのか、それ以上には及ばなかったようで、北条氏は群馬郡北部の経略を終えて帰陣した。なお、中山城の西には尻高城があるが、北条氏がこれを経略した形跡がないことから、城主尻高氏はすでに北条氏に従属していたと思われる。従属の時期は不明だが、6月19日の時点で昌幸に従っていなかったと思われることから、それより以前の事であろう。
翌天正11年(1583)正月21日、氏邦は尻高源次郎に本領尻高の安堵を伝えるとともに、中山城への在城を命じていることから、この時に北条方であったことは確実になる。またその中山城には、旧信濃衆の赤見山城守が城将として配置され、中山地衆・上川田衆・下川田衆・須川衆が配置されている。
上川田・下川田は中山城と沼田城の間に位置し、須川は尻高城と猿ヶ京城に位置した地に当たる。それらの地衆はこの時に北条氏に服属してきたものであるとすれば、北条氏の勢力は沼田城と猿ヶ京城の近辺にまで及んだことになる。沼田城はかなり追い詰められた状況に陥ったと思われる。





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