天正壬午の乱
 ~北条氏と徳川氏の同盟~
 


 織田政権からの和睦命令
所が北条氏と徳川氏の対戦は、昌幸にとって思わぬ方向に展開していった。10月24日に、織田政権の中枢を構成する織田信雄・織田信孝兄弟から、徳川家康に対して北条氏と和睦するよう指示が出されたのである。
家康としても、自軍よりも大軍の北条軍に対して、決定的な勝利を得ることは難しいと考えていたのであろう。この勧告を受け入れて、家康はこの日(24日)北条氏御一家衆北条氏規にその取次役を依頼し、起請文を送って進退を見放さないことを誓約している。こうして家康と氏規で和睦交渉が進められた。
しかし和睦は交渉が始まったばかりであるから、北条氏は当面の情勢の維持を進めている。翌25日に北条氏は祢津昌綱に、氏邦を奏者として昌幸が逆心したにもかかわらず、北条方への帰属を維持していることに対する功賞として、昌幸の領国であった海野領内4千貫文の宛行を約するとともに、妻を西上野における拠点となっていた松井田城に移すよう命じている。これは祢津氏の帰属の維持を図ってのものとみられる。
また同じ日、北条氏は氏邦の宿老猪俣那憲に、昌幸の軍事行動に対するには、佐久郡南部に別在した内山城の維持が重要として、同城に移るよう命じた。これは、昌幸の離反や、徳川方の芦田依田氏の存在を受けて、甲斐在陣の北条本軍への補給路を確保するためのものとみられる。
北条氏が拠点とした小諸城は佐久郡北部に所在し、上野からは碓氷峠越えで繋がっていた。このままでは、これより南方への補給路確保が危うい状況となるため、上野南部の内山峠越えで繋がる佐久郡南部にも拠点を取り立てて、補給路を万全のものとしようとしたのであろう。
 昌幸、和睦を快く思わぬ行動
北条氏と徳川氏の和睦交渉は、順調に進んだようで、27日に家康は、佐久郡で北条方に対して最前線で戦っていた芦田依田信蕃に、織田信雄らの指示により北条氏と和睦したことを伝えている。
恐らく昌幸にも、同様の連絡があったと推測される。それは同時に、北条方との停戦を指示するものであったはずだ。しかし上野にはまだ連絡は届いていなかったらしく、同日に真田方の沼田衆が白井長尾氏領の勢多郡津久田を攻撃しているが、在地の津久田衆によって撃退されている。白井長尾氏は反撃に出たとみられ、翌28日に、利根川沿いに北上して沼田領境の森下で沼田衆に追撃をかけている。
対して昌幸は、同日に、沼田衆恩田伊賀守に、新恩として沼田領向発知・下南雲で所領を与え、さらに箕輪領を経略したら一所を与える事を約している。
昌幸のもとには、すでに家康から北条方との停戦の指令が届いていたに違いない。しかしここで、北条領の箕輪領を経略したら、という但し書きを入れているところからすれば、昌幸には北条方と停戦する気はなかったのであろうか。或は正式に和睦が成立するまでは、抗争を継続するという考えだったのであろうか。もしくは家康から箕輪領を与える約束を受けていた為、和睦後に同領を獲得できると思って、このような約束をしたのであろうか。いずれにせよ、和睦成立に沿わない行為であることには違いない。
 和睦成立
10月28日、北条氏・徳川氏の和睦交渉は最終段階に入っており、家康から小田原在城の氏政へ、和睦の為の条件交渉の為の覚書が送られ、使者として家康宿老の大久保忠世が派遣されている。
同時に家康は、北条氏との和睦成立について、関東で連携していた反北条方の国衆にも連絡し、例えば常陸下館水谷勝俊には「信長御在世の時の節の如く、惣無事尤も」と述べて、織田信長在世時におけるように、北条氏との停戦を要請している。
そして29日、遂に北条氏と徳川氏の和睦は成立した。そこでの条件は、①上野は北条領とし、昌幸が領有している吾妻領・沼田領は、徳川氏から北条氏へと割譲すること、②甲斐・信濃は徳川領とし、北条氏が領有している甲斐郡内・信濃佐久郡は北条氏から徳川氏へ割譲すること、というものであった。そして甲斐郡内については、即日に北条氏から徳川氏に引き渡されている。さらに翌晦日には、家康の娘(督姫)が氏直の妻になる事が取り決められ、両氏の間には同盟関係が成立されることになった。





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