天正壬午の乱
 ~北条氏と手切れ~
 


 北条氏からの離反
徳川氏への従属を決めた昌幸だが、すぐに徳川方の立場を明らかにはしなかった。このことは徳川方でも内密にされており、昌幸の徳川氏帰属が公表されたのは、10月10日のことであった。
この間の10月4日、昌幸は吾妻領日影の土豪浦野儀見斎に、吾妻領内の羽尾領屋敷分を宛行い、草津の土豪湯本三郎右衛門尉が羽尾城で奔走できるように、それへの協力を命じている。また「中島」を攻略したら所領を与えることを約束している。
昌幸は、湯本三郎右衛門尉を羽尾城に在城させるとともに、「中島」の攻略を図っていたのである。湯本氏はそれまで岩櫃城に在城していたから、ここでは羽尾城に移動させたとみられる。同城周辺の情勢に不穏な物が生まれていたのだろうか。また攻略目標とされている「中島」については、具体的な場所は不明だが、その近辺に位置したことが推測され、吾妻領が完全に昌幸に掌握されていなかった様子がうかがえる。
昌幸の徳川氏従属が公表されると、北条氏もすぐに昌幸離反の情報を得たとみられる。この日、氏邦は氏政に書状を送って、佐久郡の国衆が再度人質を差出してきたこと、これによって昌幸に集まった軍勢を退散させることに力を注いでいること、沼田領・吾妻領に対する寄居が危ない状況にある事、などが伝えられた。
翌日、氏政から返事が出されて、昌幸の離反については承知したとしたうえで、あくまでも徳川氏との対戦に専念するように指示されている。氏邦としては、吾妻領・沼田領に対する備えが気になったとみられるが、氏政は徳川氏との対戦に集中することを優先に考えていた。徳川氏との対戦に勝利さえすれば、昌幸への対応はどのようにもなるとみていたのではなかろうか。
 昌幸、北条方を攻撃する
そうして13日、昌幸は湯本三郎右衛門尉に、羽尾城への在城を命じ、それに伴って上野鎌原方西窪(嬬恋村)を所領として与え、さらに信濃で所領を宛がうことを約束し、また湯本配下の人々にも本領を安堵し、羽尾城で新恩を与えることを約束している。湯本氏の羽尾城在城が、北条氏に対するものであったことが伺われる。
一方、昌幸の離反を受けて北条氏は、15日に昌幸への備えの為に、御一家衆(一門衆)の北条道感と重臣垪和伊予守を信濃小県郡海野領に派遣した。その軍勢には上野衆和田信業に従軍が命じられており、上野に在国していた他の国衆にも、同様の命令が出されたものとみられる。
そして19日、昌幸は遂に北条氏に対して手切れをし、北条方の小県郡祢津領の国衆祢津昌綱の本拠祢津城(長野県東御市)を攻撃した。祢津昌綱自身は北条氏に従軍していたらしく、同城を留守にしており、留守衆がこれを撃退している。また在国していた小県郡室賀領の室賀正武は、昌幸の軍勢は少なく、上杉方の信濃奥郡の軍勢からも支援が得られていないので、昌幸の敗北は間近いと北条氏に連絡してきている。
つまり、北条氏に敵対した昌幸の軍勢は多くなかったようで、その状況を見た室賀正武は、上杉氏から昌幸に援軍が出ていないことをもとに、昌幸をすぐに攻略できるであろうと観測していたことが知られる。
 苦戦する昌幸
昌幸は吾妻領でも北条方への攻撃を開始したようである。昌幸は本領の真田領にあったから、攻撃はあくまでも吾妻領・沼田領在所の家臣によるものであった。
昌幸はその日、吾妻領折田の土豪折田軍兵衛に群馬郡尻高領横尾と白井領小野子を、吾妻領沢渡の土豪唐沢玄蕃に大戸領手古丸を、それぞれ所領として与えているが、これは北条方への攻撃に合わせてのこととみられる。
それらの地が、すでに昌幸の支配下にあったのか、未だ北条方であったのかは明確ではないが、白井領・大戸領は北条方であったことからすると、それらはすべて北条方にあり、そのためこの所領宛行は、それらの経略を果たしたうえでの約束であったとみられる。そうすると、この時期の帰属が確認できない尻高領も、北条方であったと推測される。
真田方のこうした行動は、北上野の国衆からも北条氏に連絡があったとみられ、それに対して22日、北条氏直は吾妻郡大戸城主浦野真楽斎に、昌幸の離反は「兼ねて覚悟の前」のことであり、佐久郡の防衛のために北条道感5千人を派遣したことを伝え、大戸城周辺の軍勢で吾妻領に侵攻することを命じている。
昌幸自身は、先に祢津城の攻略には失敗したものの、23日には徳川方の佐久郡芦田依田信蕃と連携して、佐久郡伴野氏領と北条氏拠点の小諸城の間に侵攻していった。
北条道感・垪和伊予守がこのことを北条氏直に連絡すると、24日、氏直はそれに返事して、「近辺の味方中、力落とさざる様の構え」が重要と指示している。佐久郡の味方国衆が不安になって離反しないように、昌幸や芦田依田氏への防衛にあたることが大切であると言っているのである。




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