天正壬午の乱
 ~北条氏と徳川氏の対決~
 


 北条と徳川、対陣する
しかし北条氏は、芦田依田氏の攻略を遂げることができないまま、今度は徳川氏の攻撃を受けていた諏訪郡の国衆諏訪頼忠から支援の要請を受け、それに応えるため氏直率いる本軍は、7月29日に諏訪氏支援のため小諸城を出立して南下し、8月1日に諏訪郡に進軍した。
諏訪氏攻めを行っていた徳川軍は、徳川家康が在陣していた甲斐に後退し、これを受けて6日、北条軍はそれを追って甲斐に進軍した。徳川軍は甲斐新府城に布陣していたため、氏直は7日にその近所の若神子に布陣した。するとそれをうけて、甲府に在陣していた徳川家康も進軍し、8日に新府城に布陣した。またそれにあわせて北条氏は、武蔵鉢形領や八王子領からも軍勢を派遣して、甲斐郡内を制圧した。
こうして北条氏と徳川氏は、甲斐で対陣することとなる。
徳川家康は6月21日まで、明智光秀討伐の為尾張に在陣していたが、その間の12日には、甲斐・信濃諏訪郡を領した河尻秀隆がいまだ健在であったにもかかわらず、早くも家臣を甲斐に派遣して、武田氏旧臣の取り込みを始めている。いうまでもなくこれは、河尻に代わって甲斐を経略しようと図ってのことであった。
13日には、甲斐の地衆が河尻への叛乱を展開したらしく、これを受けて北条氏政は重臣で相模津久井城主の内藤綱秀を甲斐郡内に派遣し、岩殿城を占拠している。氏政はいち早く郡内の制圧を進めていた。18日に甲斐地衆は甲府を占拠、さらに河尻を殺害、これによって河尻の領国は崩壊した。家康はこれを受けて家臣を甲斐に派遣して、実質的に甲斐の制圧をすすめるとともに、北条方への対抗にあたっていた。
 家康、織田氏に領有を認めさせる
織田政権では、6月27日の「清須会議」によって、新執行部の成立と織田領国の再配分が行われた。これを受けて家康はおそらく、新執行部に対して、旧武田領国が北条氏や上杉氏に攻略されてしまうので、それらに対抗して自身に三カ国(甲斐・信濃・上野)の領有を認めるよう要請したとみられる。
家康は7月3日には軍勢を甲斐・信濃両国に進軍させているが、自身はまだ出陣できなかった。家康は、あくまでも織田政権に服属する「織田大名」という立場にあったから、織田領国への出陣には、織田氏から許可を取っておく必要があった。無断で進軍すれば、それは織田氏への敵対行為とみなされるからである。
そうしたところ7日、新執行部の中心人物であった羽柴秀吉から、敵方に経略されるくらいなら家康に三カ国の領有を認める旨が伝えられた。これを受けて家康は、9日に甲斐に進軍するのである。そして以後による家康の行動は、実態は自己の領国拡大の行動であったが、表向きは織田氏による領国回復のための行動として位置付けられるのである。
北条氏と徳川氏の甲斐での対陣は、すぐに決着しなかった。軍勢数としては劣勢にあった家康は、北条方になっていた信濃国衆の調略を進めている。対陣に入った翌日の8月9日には、早くも木曽義昌に従属を働きかけ、義昌が滝川一益から預けられた小県郡・佐久郡国衆からの人質を渡せば、起請文を交換し、かつて信長から認められた筑摩郡・安曇郡の知行を保証する事を約している。信濃西部に大きな勢力を有した木曽氏を味方につけて、信濃南部での戦況を有利に導くとともに、義昌が確保していた小県郡・佐久郡国衆の人質を入手することで、両郡の国衆の従属をすすめるためであった。
 信繁、家康の人質となる
次いで12日には、佐久郡の芦田依田信蕃をして、上杉方で埴科郡・更級郡の国衆屋代秀正に連絡を取らせ、上杉氏との和睦交渉にとりかかっている。信濃の国衆は、それぞれ北条・上杉・徳川三氏のいずれかに従属しながら、互いの抗争を展開していたのだが、徳川方と上杉方の和睦が成立すれば、少なくとも徳川方の国衆は北条方との抗争に専念できるようになるから、それを狙ってのことと思われる。
そして22日、木曽義昌は徳川家康に従属の意向を示した。直接的には、筑摩郡の拠点となる深志城を確保していた。北条方についていた小笠原貞慶への対抗の為であったが、その背景には、家康からの依頼を受けた、隣接する美濃の織田信孝からの数度にわたる勧告が大きく影響していたとみられる。
そして30日、家康は木曽義昌に、筑摩・安曇二郡の領有を安堵し、9月10日には起請文を送るとともに、さらに伊那郡箕輪領の宛行を約している。
こうして木曽氏は家康に従属することとなった。そのうえで9月17日、家康は木曽義昌に、義昌が預かっている小県郡・佐久郡国衆の人質の引き渡しを了承させ、受取の使者を派遣している。それらの人質は、家康のもとに確保されることになった。その人質の中には、昌幸からのものも含まれており、母河原氏と次男の弁丸(後の信繁)であった。このことは、弁丸の名で、木曽から出されている昌幸の重臣河原綱家に宛てた書状の存在によって確認される。
信繁は永禄10年(1567)もしくは元亀元年(1570)生まれと伝えられており、この時16歳、もしくは13歳であった。いまだ幼名を名乗っていることからすると、生年については後者の元亀元年説の方が妥当とみられるであろう。そしてこれが信繁に関する史料上における初見であった。





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