天正壬午の乱 ~神流川合戦~ |
6月2日、京都本能寺において織田信長と信忠父子が死去してしまったからである。その後、織田政権内では内部抗争が展開されていくことになる。 滝川一益がこのことを知ったのは7日とも9日とも伝えられている。また北条氏は11日までに同盟者徳川家康から、既に数度にわたって連絡を受けていた。 その11日以前、北条氏は武蔵深谷領に軍勢を進駐させている。これに対して一益から、北条氏照の宿老狩野宗円を通じて氏政に書状が送られ、この日、氏政は一益に返書を送っている。それによると、一益は北条氏に対して疑心を抱いていることを伝えてきたようで、氏政はそれに対して、一益にとっては上野を確保することが重要であり、北条氏はそのために協力を惜しまない旨を伝えている。しかし北条氏が上野国境に向けて軍勢を派遣しているのは、既に一益との間で不穏な情勢が生じていたからであろう。
しかし一益は、沼田城の管轄は昌幸にゆだねることにし、昌幸に沼田城への出陣を命じるのである。12日に昌幸は、沼田衆の恩田伊賀守に、昌幸に忠誠を尽くすとの申し出を受けて本領安堵を約束するとともに、それまでの堪忍分として、信濃小県郡上条内三十貫文・沼田領発知内十五貫文を与えている。これは以上の動きを受けてのことだろう。 しかし注目すべきは、沼田衆恩田氏に対して忠節を求め、所領を与えていることは、恩田氏を被官化したということである。一益からは、あくまでも沼田領の管轄を委ねられたに過ぎなかったであろうから、これは越権行為に当たった可能性が高い。だが昌幸は、この事態に乗じて、早くも沼田領の領国化を図っていたのだろう。 13日、昌幸は一益からの命令に従って、加勢として沼田城に進軍し、沼田領を請け取った。沼田城の守備は、いうまでもなく一益と交戦状態にあった越後上杉氏に対するものであった。藤田信吉はこれを受けて沼田領の奪回を諦めて沼間ら領から退去し、越後上杉氏を頼っていった。 16日、昌幸は吾妻領鎌原の鎌原宮内少輔に、滝川一益の命令で沼田城に出陣したことを伝えたうえで、「思い通りになったら」自領のうちから一千貫文を与えることを約束し、昌幸への尽力を要請している。これも昌幸が鎌原氏を被官化していく動向と見ることができる。 昌幸は沼田衆だけでなく、吾妻衆の被官化をも進めていることになるが、そうすると一益から管轄を委ねられた「沼田領」というのは、吾妻領・沼田領を併せてのものであったと考えられる。武田氏段階では吾妻領と沼田領は別個の領域であったが、昌幸による両領管轄を経て、一益は沼田城を拠点に両領を一体的に扱っていたのではないか。
19日、滝川軍は再度、北条軍への攻撃を行った。このときは、北条軍は当主氏直が率いる本軍が対応した。滝川軍は旗本衆を中心に戦ったが敗北してしまい、宿老篠岡平右衛門は殿軍を務めて戦死し、一益はその間に箕輪城に後退するのである。 この北条氏と滝川一益の合戦を「神流川合戦」と称している。合戦は最終的には北条氏の勝利であった。そして北条軍は、敗走する滝川軍を追撃して、上野に侵攻していった。これを受けて滝川一益は、上野・信濃二郡を維持することを諦めて、自身の領国である伊勢への帰還を決める。 翌20日、一益は毛利北条氏に人質を返還したうえで箕輪城を出立し、京都に向かい、西上野松井田城に入った。そして21日に、上野・信濃国境の碓氷峠で上野国衆に人質を返還し、信濃佐久郡の拠点小諸城に入った。 |