天正壬午の乱
 ~織田信長に臣従~
 


 滝川一益
織田信長は、武田氏を滅亡させ、その領国の甲斐・信濃・駿河・西上野を接収すると、3月28日にそれらの知行割を決定した。そのなかで上野・信濃小県郡・佐久郡は、宿老滝川一益に与えられた。
小県郡に所在していた昌幸の本領真田領と海野領、上野の吾妻・沼田領を含めて、昌幸の領国はすべて滝川一益の管轄下に入れられた。なおこの日、北条方の武蔵忍城成田氏が、織田信長から所領安堵を認められており、北条方の国衆たちも個別に信長に結び付いていたことが知られる。
滝川一益は、4月4日に上野に入り、まず箕輪城に入っている。これにともなって、北条氏に従属していた旧武田方を含む上野国衆は滝川の管轄下に編成替えされ、また北条氏邦の占領地域も滝川に引き渡されたようである。
上野国衆だけでなく、北武蔵の国衆深谷上杉氏・忍成田氏・松山上田氏、さらには北条氏邦までも滝川一益に出仕した。それら上野・北武蔵国衆は、滝川に出仕すると同時に、忠節の証として人質を差し出した。
滝川一益は4月16日まで箕輪城に在城していたが、同月中に毛利北条氏から本拠厩橋城を引き渡させて入城した。以後、滝川はこの城を上野支配の拠点とした。
この時期、昌幸が織田氏に対してどのような対応を取っていたかは明確ではない。しかし4月8日までのうちに昌幸は織田信長に進物を贈り、その日に信長から進物への礼状を送られているから、織田氏に従属を申し出て承認されたのは、それより以前の事だったことは間違いない。その取次は滝川一益が務めているから、昌幸は滝川が上野に入り、北条方国衆が滝川の管轄下に編成替えされたのに伴って、滝川を通じて織田氏に従属したのだろう。
 吾妻・沼田を接収される
4月3日、昌幸は家臣別府若狭らに対し、小県郡室賀領の国衆室賀氏の家中への調略の功績を賞し、さらに室賀領経略の上で所領を与えることを約束している。これによって昌幸は、海野領に続き、隣接する室賀領の経略も進めていたことがわかる。その後、室賀氏は織田氏に従属して存立を果たしており、昌幸の計略が果たされることはなかった。織田氏従属下でこのような計略を計ることはできる筈がない。昌幸が従属したのは、翌4日に滝川が上野に入った際の可能性が高く、まさにその直前であった。
昌幸もまた、他の国衆と同じように滝川に対して人質を指し出している。人質として送られたのは、母の河原氏と次男弁丸(信繁)であった。
ここに昌幸は織田氏に従属することになったが、その領国全てが安堵されたわけではなく、上野の吾妻・沼田領については、武田氏旧領として扱われて没収されてしまったのである。昌幸には本領の真田領と海野領のみが安堵されたに過ぎなかった。
昌幸と矢沢頼綱らその家臣は岩櫃・沼田城から退去し、吾妻領・沼田領は滝川一益に引き渡された。滝川はこれを受け取ると、沼田城には甥の滝川儀太夫を在城させたという。また昌幸の配下にあった吾妻・沼田領の諸氏も、そのまま滝川の配下に編成替えされたとみられる。昌幸は武田氏滅亡後、自力で吾妻・沼田領の領国化をすすめていたが、それはここで一度頓挫することになった。
なお、昌幸に近いところでは、4月2日に八崎長尾輝景が白井領双林寺に寺領を安堵していることが注目される。双林寺は白井城近所に所在したから、これは長尾氏が白井領を回復したことを示す可能性がある。武田氏滅亡に伴う北条氏の上野侵攻の中で、北条方であった長尾氏は、武田方の毛利北条氏から、旧領白井領の奪還を果たした可能性が考えられる。そして長尾氏は、かつての本拠白井城への復帰を果たして、白井領支配を展開していく。そしてこの後、小田原合戦まで昌幸との間で吾妻・白井領を巡る抗争を続けていくことになる。
 「天下一統」の道筋に
昌幸は武田氏滅亡に伴って北条氏に接触し、次いで織田氏に従属して、かろうじてその存立を維持したといえる。しかしこの武田氏滅亡という事態は、単に一戦国大名の武田氏の滅亡、その領国の併合による織田領国の拡張、といったような次元にとどまるものではなかった。
既に関東最大の戦国大名であった北条氏は織田氏に従属し、また織田氏は武田旧領を接収すると、関東に入部した滝川一益を中心に、常陸佐竹氏など北条氏と敵対関係にあった関東の国衆や、さらに奥羽の大名・国衆に対して、織田氏への服属を働きかけた。そして5月初めの頃には、関東・奥羽の大名・国衆は基本的に織田氏への従属を遂げるのである。そうした状況は、織田氏による「東国御一統」と認識され、また、織田氏による「天下一統」は目前と認識された。
このときの織田氏は、越後上杉氏・中国毛利氏・四国長宗我部氏と抗争をするにすぎず、それより東方地域はすべて織田氏の服属下に入ったのである。そこでは、味方同士の関係になったことから大名・国衆の抗争はすべて停止された。当然ながら、昌幸と北条方との抗争、あるいは北条氏と佐竹方の抗争も停止されたのである。そしてそうした状態は「惣無事」と表現された。
すなわち織田氏の東国進出にともなって、関東・奥羽では「惣無事」が成立することになったのである。こうした事態の出現に対して、関東・奥羽の大名・国衆には少なからず戸惑いがあったことも事実で、それを「御窮屈」と表現している。
そしてこの「惣無事」の成立という事態は、後に「信長御在世の時節の如く、惣無事」と表現されて、その後の小田原合戦にいたる関東の政治過程を強く規定していくのである。




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