渋川春海と天文学
 ~天文学と陰陽道~
 


 陰陽寮
カエサルがユリウス暦を制定したころ、日本は弥生時代にあたり、既に稲作が始まっていたが、まだ歴はなかった。3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」に、倭人は暦を知らないと記されている。ただし、春に耕して秋に収穫する農業サイクルによった素朴な自然暦くらいはあったらしいことが、その記述からはうかがえる。
「日本書紀」によれば、中国の暦が朝鮮半島経由で日本に伝わったのは6世紀後半。仏教伝来(538年か552年)からそれほどたっていない頃である。その後、701年に大宝律令が制定されると、朝廷は陰陽道と共に天文や暦を専門に研究する機関として陰陽寮を設置している。
しかし、陰陽道が暦とセットにされていたことからもうかがえるように、当時の天文や暦の研究が科学的なものだったかは疑わしい。実際、陰陽寮では彗星の出現や星と星の位置関係などから吉凶を占うことに主眼が置かれていた。特に重視されたのが日食で、これは厄災をもたらす不吉なものとされ、日食当日は朝廷の公務はすべて取りやめ、厄除けの行事が行われたという。そのため天文や暦を研究する陰陽寮の専門官にとって日食の予測は重要任務だった。
 宣明暦
はたして当時の日食の的中率がどのくらいだったかは不明だが、当初、日本では暦は農耕のためではなく、まつりごとの判断手段として受け入れられたのである。
そんな日本の暦の歴史をたどるうえで重要なのは、平安時代に中国の宣明暦が導入されたことである。それまでいくつかの太陰太陽暦が中国からもたらされたが、この宣明暦は日食の予測に優れていた。中国は頻繁に改暦を繰り返してきた歴史があるのだが、これは君主が変わるたびに旧王朝の暦法を改め、刷新するのが通例だったためである。そうした中国にあって、宣明暦は唐時代に最も長い71年間にわたって使われた暦だった。
ところが、日本では唐よりもはるかに長く宣明暦が使われ続けた。平安時代前期の貞観4年(862)に導入したこの暦を、江戸時代前期までの800年にわたる長さでこの暦を使い続けたのである。
これほど長い間改暦されなかったことについては、様々な理由が指摘されるが、まず9世紀末に遣唐使が廃止されたため、それ以後中国から新しい暦法が入ってこなくなった。また日本では統一国家がなかなか成立しなかったため、国として改暦の必然性が希薄だったとの指摘もある。
 科学的進歩が乏しい日本
日本の天文や暦は呪術的色彩が強く、故にこの分野の科学的進歩が見られなかった。つまり、自前で新たな暦法を編み出すことは勿論、宣明暦を改良するすべもなかったのである。日本では技術的進歩が著しかった戦国時代においてもなお、武将たちが戦にあたり吉凶を重視している。上杉謙信が、相模方面へ消えた彗星から「北条氏に吉凶あり」とした軍配師の言葉を信じて北条攻めを敢行し、勝利を収めたという話がある。日本人がもっと客観的なサイエンスの眼で夜空を見上げるようになるのは、まだ先のことだ。
見方を変えれば、何百年もの間改暦せずとも何とか使用に堪えるほど、宣明暦は優れた暦だったともいえる。だが江戸時代に入ると、それもどうやら限界に近付いた。暦と実際の時間軸とのズレは次第に大きくなっていき、忌むべき日食の予測が外れるなどで、その不備が指摘されるようになった。
そうしたなかで江戸前期、ある天才的な天文暦学者が登場する。それが日本で初めて独自の暦を考案し、幕府の初代天文方を務めた渋川春海である。




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