初代外交官として 
~参与となる~
 


 新政府樹立後のあわただしさの中で
大政奉還、王政復古と著しくあわただしかった慶応3年も終わり、翌慶応4年(1868)朝廷では新しい政府が総裁、議定、参与の組織で発足し、正月2日初会議を開いた。徹夜でやっと3日に討幕の儀が決定し、4日より6日にわたった鳥羽伏見の戦いで官軍が勝利を収めた。新政府は太政官制度を設け、太政官総裁には三条実美、岩倉具視が任ぜられ、その下に神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、法制の7総督を置き、議定の公卿や諸侯がそれぞれの総督に任ぜられた。この7総督の下に7事務局を置いて、この事務局掛に参与の適材をあてることになったが、これまで王政復古に最も功績のあった薩摩の小松や桂久武、長州の木戸、広沢などがまだ参与に漏れているので、徴士参与として任ずることとして、彼らは京都に招かれることとなった。薩摩に帰っていた帯刀と桂久武は、正月11日に上京せよとのことであったが、二人とも上京すれば薩摩藩の政治改革に支障を来すので、小松だけ上京することとなった。
帯刀は、久光に正月天機伺いの使者を兼ね、歩兵二小隊、大砲隊、海軍隊を率い、正月18日汽船で鹿児島を出発し、25日京都に着いた。正月28日に朝廷へ出仕したところ、徴士参与職に挙げられ、太政官総裁局顧問を仰せつけられ、さらに事務局については帯刀は外国事務局の兼務を仰せつけられた。なお、西郷は海陸軍局、大久保は内国事務局であった。
 外国事務局の重要な任務
当時、外国との外交折衝は、開港通商問題や外国に対する国民の攘夷論など、一歩誤ると紛争を起こし、国を危うくすることにもなりかねない難問題を抱えていたので、この難局をうまく処理できる人材が望まれた。天下の人材を集めた参与の中で、外交に当たる人物を選ぶとすると、かつて英国公使などと親交を重ねている小松帯刀を置いて他に適任が見当たらない。それまで幕府の有能な人材が対外交渉を行ってきたが、新政府内には適した人物はほとんどいなかったのだ。故に、外国局の外交担当に、帯刀の登場を必要としたのだろう。
帯刀は政治手腕もあったが、それ以上に情に厚く、人柄が温かく、親しみやすい性格で、外交的な才能にも優れていたと見え、イギリスの青年外交官で、明治維新期に日英間外交に功績をあげたアーネスト・サトウは、その著書「一外交官から見た明治維新」のなかで、小松帯刀の印象を次のように述べている。
「小松は私の知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度が人に優れ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた」
サトウの絶賛のように、他の外国の外交官からも、そのように見られていたほどであるから、日本の新政府初代の外交官として、うってつけの人物であった。外国局の総督の東久世卿と伊達卿は、参与の小松に外交担当を兼務してもらうように願い出、事実、外交の実務は全て小松に任せ、全面的に信頼した。
 戊辰戦争の裏で対外問題蓄積
小松は外交官に相応しい人物であり、外交折衝にはなかなかの手腕があるが、自分で外国語を話すことはできない。そこで英国留学で欧州の事情に精通し、英語の話せる五代友厚を片腕として部下につけ、その下に国際法に詳しい陸奥宗光を起用する。陸奥は坂本龍馬の海援隊にいる時、万国公法を勉強していたのである。
慶応4年2月3日、幕府征討の大号令が出され、天皇は御親征成功祈願のため、大坂へ行幸されることとなった。東征大総督には、有栖川宮熾仁親王、大総督参謀に西郷が任命されて、2月25日江戸へ向けて新発することとなった。天皇御親征の大坂行幸は、はじめ2月21日の予定で、事前の準備を小松に仰せつけられたので、小松は大坂へ出張し、調査の結果行在所を大坂の西本願寺に決定して図面を添えて奏上し、諸準備を終えて行幸をお待ち申し上げることになった。新政府としては外国との外交関係を確立することも急がねばならないので、外国局では西本願寺に各国公使を招き、2月28日に京都御所で、天皇の謁見の儀を行うことを通告したのである。
ところが、東征軍発進の15日、泉州堺でフランスとの間に一大事件が勃発し、外国公使謁見の儀も、天皇の大坂行幸も延期せざるを得なくなった。泉州堺の事件はフランスとの問題であるので、その解決には外国事務局の担当である小松帯刀と五代友厚が当たらなければならなくなった。




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