武田氏の家臣団と身分・役職 2.御一門衆と親類衆 ~親類衆の活動~ |
武田信玄の母方の実家大井氏は、南北朝期の当主武田信武の次男信明を初代とする庶流家である。戦国初期の当主信達は永正12年(1515)に武田信虎と対立。本拠上野城を包囲されるが、信虎方が深田に足を取られた隙に反撃し、勝利を収めた。さらに駿河今川氏に援軍を要請し、国内に今川勢2千人が侵入する事態を招いている。 しかしながら、信達は今川氏に見切りをつけ信虎と単独講和を結んでしまう。こののちの今川勢撤退をめぐっては、連歌師宋長が間にたち、二カ月もの交渉が行われることになる。和睦後、娘が武田信虎に嫁いだというのが通説である。この女性が、信玄・信繁の生母大井夫人となる。ただし宗長の自伝「宇津山記」はこの合戦を「武田兄弟矛盾」つまり武田兄弟間の戦争と表現しているから、婚姻はこれ以前で、信達の嫡男信業と婿である武田信虎の戦争と認識されていたかもしれない。 しかし姻戚関係を結んでも、武田氏と大井氏の関係は安定しなかった。永正16年(1519)信虎が甲府に家臣・国衆の屋敷を造らせようとしたところ、大井氏をはじめとする国衆は一斉にこれに反発。翌17年、今井、栗原氏と結んで三か所で同時に挙兵する。信達は信虎に敗れて一時武蔵秩父に亡命し、その後帰参した。それ以降は信虎に背くことはなかった。大井氏の家督は、信達ー信業ー信為ー信常ー信舜と受け継がれていく。残念ながら信舜が元亀2年(1571)に没した後の当主は不明。
このように武田親類衆は、戦争に際しては、本陣の守りを固めることが多かった。率いている手勢が多くとも、前線に投入されることはあまり想定されていなかったのである。 特に栗原伊豆は、勝頼が出した書状を見ても、相当な敬意を払われて処遇されていることが伺えるものになっている。戦陣でも、その処遇は同様であったという事だろう。 なお、兄油川信恵とともに武田信虎と争って敗死した岩手縄美の子孫は、「御旗奉行」を務めており、陣立書にも「代々之旗」と記されている。
これに対し、親類衆のなかには武田氏奉行人として活動する者が複数存在する。つまり武田庶流家は、武田氏の譜代家臣として「家中(家臣団)」の構成員になっており、奉行人として活動することを求められたのである。「公事奉行」に親類衆が多く就いているのも、その一例である。 天文18年(1549)5月7日に「徳役」という新たな税の賦課を定めたのは、今井信甫・今井伊勢守・下曾禰出羽守の3人で、いずれも武田親類衆である。親類衆は、早い段階から内政参加を求められたと言ってよいだろう。 軍事には形だけでしか関わらないが、譜代家臣の一員として内政に携わる。これが武田親類衆の姿であった。 |