名門武田氏のルーツ
 ~武田氏のルーツ~
 


 清和源氏の一族
源氏の中で、もっとも有名な継投は清和天皇をルーツとする清和源氏であろう。清和天皇から何代かのちの満仲の子頼信の系統が、頼義、義家と続き、義家の系統が頼朝に至る武家の棟梁の家柄である。頼信は河内守となって大阪府羽曳野一体を領有し、壺井の地に石清水八幡宮を勧請して壺井八幡宮を造った。そして子頼義、孫義家も河内守となった。
頼信と義家は、その死後、丘陵の上に築かれた壮大な土饅頭形式の墓地に葬られ、頼義は壺井八幡宮に近い通法寺に葬られた。この三代が、清和源氏の嫡流と言われている河内源氏である。
頼信が永承元年(1046)に石清水八幡宮へ納めた願文には「先人は満仲、その先は経基、その先は元平親王、その先は陽成天皇、その先は清和天皇・・・・・、頼信はかの天皇(陽成天皇)の四世なり」と書かれているという。この願文から見れば、「清和源氏」と呼ばれている源氏は「陽成源氏」と呼ぶのが正しいが、陽成天皇は乳母を手打ちにするなど数々の乱行を働いていたのを忌避され、一代繰り上げて清和源氏と称するようになったそうだ。
 新羅三郎義光
武田家は頼義の三男義光を始祖とし、その子義清が「武田氏」を称し、孫の清光が「逸見氏」を称した。そして清光の子で傍流の信義が武田氏を名乗って信虎、信玄に至っている。したがって武田氏は清和源氏であり、河内源氏の傍流ということになる。
義光の兄義家が京都府八幡市男山の石清水八幡宮の社前で元服して八幡太郎と言われたのに対し、義光は大津市三井寺の新羅善神堂の社前で元服したので新羅三郎と言われ、弓馬の達人であり、笙の名人だったという。
その義光は奥羽の後三年の役で苦心している兄義家を助けるため奥羽へ下ることになった。その後三年の役後、義光は常陸国に住んでいた。しかし勅命が下っても京都へ帰らず、領土的野心から六条顕李の荘園をほしがったので、顕李は涙を呑んで譲ったそうである。義光は強欲な策謀家だったようで、兄義家の死後、源氏の棟梁の地位をめぐって義家の子らと激しく争ったという。平家に比べて源氏に相克が多いと言われるのは、このあたりに遠因がある。
その後義光は甲斐守となって甲斐へ移り住んだが、最期は甲斐を去って大津の三井寺に住み、大治二年(1127)に同寺で享年83歳で死去した。
武田家には義光伝来の「御旗・楯無」と呼ばれる神聖な家宝があり、今も存在している「御旗」とは天喜四年(1056)に後冷泉天皇から義光の父頼義が賜り、義家が使用した日本最古の「日の丸の旗」であり、「楯無」とは源氏に伝えられていた八頭の鎧の一つで、義家が着用し、矢をも通さない「鎧」のことである。そしてその鎧の袖についている「花菱の紋」が武田家の家紋となり、いわゆる「武田菱」はその変形である。
 武田義清と清光
義光の三男が武田姓を称した義清である。義清は常陸国で生まれ、常陸国武田郷の沼尾神社(武田大明神)の場所に住んで武田冠者と呼ばれていた。
義光が死去すると、新参者に対する在地勢力の反発が強まってきた。義清の嫡男清光が乱暴者ということもあり、大治5年(1130)に鹿島神宮領などを押妨した罪で国司から朝廷へ訴えられたのもそのためである。しかし義清の功績に免じて成敗を逃れ、父子ともに甲州市川庄の下司職として流された。
義清は久安5年(1149)75歳で死去。その義清の跡目を継いだのが清光である。清光は天仁3年(1110)常陸国武田郷で生まれている。清光は土地紛争を起こして訴えられ、父とともに甲州に流された。
父子は市川大門から八ヶ岳山麓へ進出して官牧や私牧など多くの牧場のほか貴族や寺社の荘園などを支配下におさめた。そして清光は八ヶ岳山麓の逸見山に谷戸城を築いて黒源太と称し、逸見冠者と名乗った。清光は「武田姓」から「逸見姓」に変えたのである。この後、甲州では逸見家が本家となり、傍流に転落した武田家との確執が続くことになる。
清光は精力絶倫で子副者、成長した子らを国内の要所へ配置し、勢力を急速に伸ばした。保元・平治の乱が勃発すると、源義朝から参陣を要請されたが、時世を見るに敏であった清光は石和信景に二百の人数を与えて派遣しただけだったという。
清光は仁安3年(1168)に谷戸城で死去、享年は59歳だった。




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