3・高島流兵学の登場 高島平での演習 |
展示演習の実施状況 |
演習は火砲の実射・馬上砲射撃・鉄砲備打・野戦筒訓練に分けて行われた。 火砲実射は八町(約960m)の所に目標の小旗を立てて、まず臼砲一門の各個射撃が行われた。ボンベン玉仕掛三発を発射したが、平均50m程度目標と誤差があり、導火信管の誤差は4―5mより50m程度、ついで焼玉二発を発射したが、一発目は250m程近く落ち、導火信管が抜け落ちて失敗だった。二発目は目標より120m遠くに着弾したが、信管は良好に作動した。次に数玉を四町の所に立てた目標に発したが、四町より七町目の間に弾子が散乱したという。 馬上砲射撃は騎士1名があらかじめ装填した短銃三挺を持ち、駈けながら三方にうち往復計六発を射撃した。おそらく騎手・馬ともに馴れなかったためだろう、短銃一挺を落とすなど不出来だった。 次に門人97名によるゲベール銃備打ちが行われた。射撃には空包を使用し、一列横隊隊形による各種の方向に対する一斉射撃や隊形変換、三方備の射法等の外、着剣したゲベール銃による一列横隊の突撃射撃等、一列から三列に至る隊形変換や一斉射撃の要綱を展示した。 また、野戦砲三門の訓練では、簡単な各種状況下の砲列布置と迅速な射撃開始、目標状況に応ずる各種射法を展示した。空包使用、砲手は一門8名だった。最後の小筒打方は99名の門人が行い、要領は鉄砲備打ちとほぼ同様だったと思われる。 |
演習に対する井上左太夫の所見 |
幕府担当者の評価の焦点は、もっぱら精度と軽量で取り扱いが軽易なことにおかれ、西洋方式の優位すなわち射程や破壊威力・取り扱いの簡単さ。総合的な威力などは黙殺された。 ボンペン玉仕掛けや空包を使用したのは危害予防を考えての配慮であったが、そのために秋帆の主張した榴弾の強烈な破壊威力を示せず、参観者に与えた印象は必ずしも強くなかった。 和洋の比較展示演習なども行われなかったという演習構成にも問題があり、反対派は洋式の欠点のみを論じ立てたのである。演習後の井上左太夫の所見の概要は次の通りである。 一、鉄砲備打ち 空包射撃なので命中状況を知ることはできないが、不発の銃が相当あった。銃剣等は我方には槍・長刀・刀があるので不要である。日本銃の方が発火・照準・命中で優り長さも短いので扱い良い。射撃は一斉に行ったのでどの銃が不発かその場ではっきりしない。 銃の捜査・足並みは非常によく揃っているがこれは「童子戯に等しき仕方」である。また銃の動揺が激しく命中が悪いので、日本の火縄銃の軽くて取り扱い便利な方が優っている。 二、野戦砲 これも空包だったので命中如何を知ることは出来なかった。しかしこのように軽い大砲を8人もの大人数で捜査しているため軽く動くのは当然で、人数の無駄である。我流では三百目・八百目の大砲を打前一人・手伝一人で自由に射撃している。 三、騎上砲 馬上射撃は甚だ見苦しく不成績である。日本の馬上筒は平常馬をよく鉄砲に馴らせてあるのでこのようなことはない。 四、臼砲 臼砲で討ったボンペン玉は日本で刎割玉という品と同じで新規のものではない。御秘蔵の「虎の子」という携帯臼砲の方が軽便で勝っている。このように重い臼砲は異国製でもあり採用する必要はない。 五、榴弾砲 臼砲と比べると射程も長いが車台等は砲の重さに相応しない重いもので、異国風に重いので取り扱いに不便である。 六、焼玉 火毬という日本品の方が命中精度もよく、十倍も長く焼けており火勢が強い。 七、洋風の件 「槍付小筒にて備打ち候節、異体の服・笠等相用い蘭語にて進退指揮仕り候は心得違いの義と存じ奉り候。既に同人流儀を高島流と唱え蘭語を用い候事一通りならざる義と存じ奉り候間、堅く御差留仰せ渡され候方然るべきやと存じ奉り候」 八、結論 「同人事御当地へ着間もなく数十人門弟も出来候はとかく新奇を好み候ように成り行き、その上砲術家業の者共業前の儀かれこれと批判候を、俗に申す職敵にて悪しく申すように相聞え申すべくやも斗り難く存じ奉り候。前書の見分仰せ付けられ候わば素人の惑を解きその上御手厚き御武備の程も顕れ申すべく存じ奉り候。そのほか数玉焼玉馬上砲の業に至るまで猛烈にこれなく、御立用には相成り難く御用立ち申さず候品に御座候。前書のうちモルチール筒並にホイッスル筒この度上納等仰せ付けられ候わば、先年蘭製の筒田安より上納仕り候先例も御座候につき業前工風仕り候えば御用に相立ち申すべく候。そのほかの筒並に同人・業前とも一切御用に立ち申すまじく候。右の通り田付四朗兵衛と相談のうえこの段申し上げ奉り候。以上、井上左太夫」 なお、臼砲・榴弾砲は重くて不可としたのにかかわらず、上納させて業前工風すれば役立つとしたのは矛盾している。日本の者が優れているとした彼らの主張には、実は裏があることを示しているのかもしれない。 |
不公平な幕府の評価 |
過去の栄光にすがるというか、今までこれでやっているから変える必要はない、として新規のものを取り上げないというのは、日本人の宿痾なのだろうか。明治時代に日露戦争にかろうじて勝利した後、その栄光にすがりつき、太平洋戦争に至るまで、前例踏襲型で突き進んで滅んだというところをみても、日本人はこういう歴史を繰り返しがちである。 洋式の銃より、火縄銃の方が優れているだとか、一斉射撃は弾丸の浪費だとか、銃剣方式より槍兵をよしとして小銃兵を増加することに無関心だとか、井上や鳥居らの態度は現状維持と保身以外の何物でもなかったといえる。また、野外での馬匹牽引を考慮に入れて大型かつ頑丈で連続射撃にも堪えるように作られた洋式大砲と、それとは性格の違う日本古来の軽いけれど壊れ易く、連続射撃にも堪えない大砲を比較するなど、幕府は秋帆を一方的にこき下ろしたのである。 鳥居や井上は鉄砲備打ちを含む団体訓練を子供の遊びと評したが、これは西洋式の訓練が傭兵を対象とし、厳重な規律をもって突撃を強制するフレデリック方式の流れをくむものだったため、日本の武士たちを対象とした自主的な射撃・突進格闘を主体とした兵法から見れば馬鹿らしかったのだろう。しかし現実には泰平が永く続き肝心の武士たちからも尚武の気を失っており、いざ戦場においては規律で強制せねばならない素質の者が多くなっていたのである。にもかかわらず、彼らは机上の軍法に陶酔し、規律の必要を認めようとはしなかった。 また、鳥居が答申の中で「和漢は智略を尚び西洋は力で勝つことを目標としている」と評したのは興味のある点である。智略は謀略・策略に通じており、それをつかうこともさることながらまず勝てる力を持ち不敗の基礎を作ってからの智略が肝心で、日本古来の名将はいずれもそれを心がけたのであった。しかし、太平の久しきに馴れ、力もないくせにやたら策略を弄するのを尚ふに至ったとすれば、兵法また堕落せしりと言わざるを得ないだろう。 しかも現実に、この智略を尚ふ流儀の兵法が、のちの幕末の動乱で各地で見られ、ことごとく敗北しているのであるから、笑い事では済まなかったはずなのである。 |