3・高島流兵学の登場
高島秋帆の洋式兵学 

    アヘン戦争の余波
隣国の清国では、天保10年(1839)欽差大臣林則徐が英国商人が密輸したアヘン2万箱を没収し焼却するという禁制品アヘン絶滅の非常手段をとったことから、英国との緊張が高まっていた。
英国艦隊は翌11年、広東を攻略し、ついで舟山列島に拠り、厦門・寧波を攻撃、さらに北上して白河に至る沿岸を封鎖するとともに、一部は南京に迫った。ここにいたって清国は和を求め、天保13年7月、南京条約が成立した。英国はこれによって香港島を獲得し、さらに広東・上海以下五港を開いて、領事の駐在を認めさせるなどの権利を獲得した。いわゆる阿片戦争である。
高島秋帆は当時、オランダカピタンについて西欧の兵制・軍政を学んでいた。やがて彼は私財を投じてゲベール銃三百挺・白砲四門等を購入し、諸藩の門弟三百余人を歩兵四個小隊・砲兵一隊に編成し、オランダ方式で教育するまでになった。秋帆はアヘン戦争の報を聞くや黙しておれず、洋式兵法訓練の採用について幕府に建言した。天保11年のことである。
その建議書の中で彼は、火器体系を一新する要を説いた。
    秋帆の建白 
高島秋帆の建白の内容は以下の通り。
「荻野流その外諸家の術共卿か修行仕り候えども十分満意の儀もござなく、然る所蛮夷相禦ぎ候には彼方の術心得候方肝要の儀と存じ候間、相及び候だけは色々探索仕り彼方砲術の理も承り候処、実に尤もの筋合に相聞え戦場実事に於いては左も之れ有るべきやと相考え候事のみに御座候えば、蘭人共諸家の砲術を兼々相嘲い候儀無理ならざる次第と相考え候儀に御座候。
彼方の義合は大略御覧の通りにて、本邦玉・砲録の類も種々秘法と仕り候業御座候へ共、冲もボンベン(榴弾)等烈しき業に及び候儀は之なきやと存じ奉り候。余は御賢察あらせらるべく候。あまねく天下の火砲一変仕り実備に相定め候よう御座候ねば我が武威いよいよ光揚仕り御治世永久の吉瑞と千万有難く存じ奉り候。何卒モルチール筒(白砲)並に近来発明の筒これあり候に付、これ等はきっと御備え相成り申すべく存じ奉り候間、江戸表御備え等になしおかれて候ては如何御座あるべく候や」

秋帆の建白は、江川太郎左衛門の特別の尽力と鳥居耀蔵等の意見書により一応は取らあげられ、翌天保12年、秋帆は出府して徳丸原で展示演習を行うところまでこぎつけた。しかし、幕府の結論は展示の前に決まっていたようである。
    鳥居耀蔵の意見書
鳥居らの意見書の要旨は次の通り。
「当時西洋に用い候モルチル筒、業合烈しく急速の便利宜しく格別の御備に相成るべきにや候えば、諸家砲術家にて伝来の如く中り(命中)を専一と仕り候業には之れ無く、接戦の際に臨み人数群衆の所へ猛烈の火薬を打ち込み候ばかりを主と仕り候由。それと申すも西洋諸国の習俗は礼儀の国に異りて只々厚利を謀り互に勇力を闘わし候迄にて、和漢の知略を以て勝利を取り候軍法とは大いに相違仕り候やにつき、西洋にて専ら利用これ有り候とても一概に信用も成り難く、然る処俗情新奇を好むは古今の痛弊なり。況んや蘭学者流は気を好む病尤も深く候間その末は火砲のみならず行軍布陣の法により平日の風俗習教までも遵い行い候様に成り候ては其の害少なからず。これ等の処前以て御深慮これあり度く存じ奉り候」
さらに、清国広東の敗北は敢て火砲の利鈍によるばかりではないとし、次のように結論した。
「護国の御備は平常武備の道を厚くお世話なられ、軽薄の士風を一変して節義を専らと仕りこれあるべく、火砲の利を恃みわずかの地役人を指揮仕り候位の儀を一方の御備と存じ候儀は微賤の者編小の識見より出る所にて、一切御採用んは相成らず候間、申し上げ候趣は御沙汰に及ばれ難き旨を仰せ渡され然るべく存じ奉り候。
さりながら火砲は元来蛮国伝来の器に候えば、追々発明の術あるやも計り難く候に付き万一諸家来へのみ伝法相成り候ようにては如何御座候間、専門の義につき井上左太夫・田付四朗兵衛・その外諸組与力の内砲術師範仕り候者へ見分仰せ付けられ、格別便利の器に候わば銘々家伝の外、修行も仕り候て然るべきやに付いずれ右器は御取寄の方と存じ奉り候。同役一投評議仕り候処書面の通りに御座候。則ち御下げ成られ候書面返上この段申上候。以上」

そしてとにかく砲術を見ようということになり、翌天保13年3月に秋帆に「諸組与力格」の地位を与えて「会所調べ役頭取」を命じ、彼は出府することになる。
 





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