台湾民政長官
 ~治安の確立
 


 抗日ゲリラ対策
後藤と児玉は、「生物学の原則」で台湾統治に臨んだのであるが、彼らが直面した最大の問題はやはり抗日ゲリラであった。乃木時代には、ゲリラに対してはいわゆる三段警備法なるものが適用されていた。これは、ゲリラ出没地域は軍隊と憲兵が管轄し、他方で平地・市街地は警察が管轄する、そしてその中間は警察と憲兵の協力によるという制度であった。
三段警備法は一見すると合理的に見えるが、その実は極めて非合理的な制度であった。まず軍隊と警察とは、指揮命令系統はもちろん、その考え方も根本的に違っていて、仲が悪いのがふつうである。また、住民の中に浸透するゲリラに対し、正規軍というものは役に立たないものである。ゲリラが出たからといって、軍隊が駆けつけるともう姿が消えている。そうするとそこの一般住民にまで無闇に嫌疑をかけたり暴行をしたりする。ゲリラとの戦闘では戦友が殺されているというので殺気立ち、必要以上に対決姿勢をとる。こういう事が多かったのである。
こうした欠陥を見破った後藤と児玉は、三段警備法を廃止することを決定した。着任早々の5月25日、児玉は地方官に対する訓示において、警察を前面に出す方針を明らかにし、また6月3日の軍幹部に対する訓示において、「予ノ職務ハ台湾ヲ治ムルニ在テ、台湾ヲ征討スルニアラス」と宣言した。三段警備法はいわば敵に対する防衛、敵との対決の発想に立っていた。これに対して、警察によって住民に浸透してゲリラを孤立させ、同時に彼らに投降を呼びかけることへと、政策は大きく転換されることになったのである。
 招降政策
このような転換は、ゲリラに対する従来とは異なった見方に裏付けられていた。児玉は6月の訓示で次のように述べている。台湾には確かに古くから政府に従わぬ「土匪」が存在していた。しかし現在の「土匪」はこれと異なり、財産があり、住民の信頼を得ているものが少なくない。こうした元来「良民」たる部分が「土匪」となったのは、同情すべき事情が少なくない。例えば日本軍によって親兄弟をみだりに殺され、その復讐のために「土匪」となったものがある。また日本統治によって新たな制度が敷かれ、古くからの権利を失って「土匪」」となったものがある。このように述べて児玉は、ゲリラを直ちに討伐の対象とする考えを明白に否定したのである。
このようなゲリラ観が、そもそも児玉のものなのか、あるいは後藤のものなのか、それは不明である。しかし二人がこのような方針を共有していたことは間違いないだろう。こうして総督府はゲリラに対して積極的に投降を呼びかける「招降政策」を開始した。そのたえにこれまでの犯罪を不問に附し、積極的に生業や資金を与えるなどの方法をとった。「招降政策」自体は乃木総督時代から存在したが、三段警備法などの為、十分効果をあげることができなかった。児玉・後藤時代になってようやく成果が上がり始めたのである。特に後藤は各地の投降式に積極的に出席し、この方針の発展に努めた。
 流血とは無縁ではなかった
しかし、そこは異民族の間の事である。誤解は絶えなかった。投降式に臨んだ「土匪の中には、資金その他を持参した総督府の方が降参したのだと誤解するものもあった。またちょっとした誤解やいざこざから、投降式が流血の場となってしまうこともあった。
さらに、児玉・後藤時代の成果も、流血と無縁ではなかったのである。後藤自身によれば、明治31年から35年にかけて殺害された「土匪」は1万1950人であった。特に35年には最後の大討伐が行われ、死者4676名に達している。こうした数字の中には純然たる犯罪者も含まれているし、討伐による死者が激減し、判決による死刑に代わっていることも一応評価はできるが、それでも過酷な弾圧もあったことは否定できない事実である。
児玉・後藤は、基本的にはソフトな政策によってゲリラを投稿させる方針をとったが、同時に残るゲリラに対しては台湾全土で攻勢に出たのである。
ともあれ、こうした方針によって、明治35年の段階でようやくゲリラは鎮圧されたと言われている。




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