外交 ~講和会議後~ |
日本代表団は困った。言葉の問題もあった。それまで国際会議はフランス語が公用語だった。ところがパリ講和会議は議長がフランス人であったにもかかわらず、英語使用が多かった。ここにも戦勝国アメリカの影響が及んでいた。国際条約の正文はフランス語であった。しかし講和会議では英語を用いようとした。フランスが反発する。結局、仏英語併記で落ち着いた。クレマンソーは英語ができた。会議は英語が中心だった。 牧野や珍田の様に英語に堪能な全権もいた。駐ベルギー公使の安達峰一郎のようなフランス語の達人もいた。それでも言葉のハンディは大きい。 代表団の事務方はてんてこ舞いだった。会議で何かが決まる。英仏語の原文と要約を本省に電報する。徹夜もしばしばで、堀内は日本の外交能力の低さを痛感した。「講和条約では、日本は十分に主張を貫くことができず、全権団の構成、情報収集力なども他国に比べ、残念ながら貧弱だった」。重光葵も同様に記している。「パリに来て新しい世界の情勢を見た結果、いかに日本が世界の進運に取り残されているかを痛切に感じなければならなかった」 重光はホテル・ブリストルで有田八郎と同じ部屋だった。二人は早朝、チュイルリー公園を散策しながら話し合った。日本代表団が抱える問題は、外務省を変えなくては解決できない。重光は堀内ともブローニュの森を散策しながら同じように議論した。代表団の外交観たちが動き始めた。
本省にも理解者がいた。澤田節蔵電信課長もそのひとりであった。澤田は言う。「世界的地位の向上と共に国際的責任も加わり、担当任務も激増した。それなのに、従来通りの貧弱な機構では事務処理が困難になってきた」。杉村陽太郎条約局第二課長や川島信太郎条約第一課長も賛同した。日本代表団が帰国して程なく、彼らは外務省革新同志会を結成する。四十余名に上ったメンバーは内田安哉外相に意見書を提出した。 本省トップは彼らの建策を受け入れる。具体的な成果となったのが大正10年(1921)の情報部の設置である。初代部長は講和会議全権の伊集院彦吉で松岡洋右が補佐した。重光は情報部の設置を高く評価する。「情報啓発の仕事が始められたのは、外務省革新の機運による第一の成果であった」。なぜ彼らは「情報啓発の仕事」を重視したのか。講和外交は広報外交でもある。巧みな英語を操る中国代表の顧維鈞の弁舌に日本側は押された。講和外交は情報外交でもある。不充分な情報収集では講和が会議で自国の主張を通すのは無理だった。新外交による講和外交は国際世論に訴えなくてはならなかった。彼らの活動をきっかけとして外務省の機構改革が進む。 講和会議の日本代表団は主要な外交官を網羅していた。のちの日本外交を担うことになる彼らには直接、間接に講和会議の影響が及んでいた。講和会議の衝撃から国内を革新する。このような気運は外交官だけに留まらなかった。代表団に同行した永井柳太郎は講和会議の翌年、衆議院に初当選し、憲政会議員として普通選挙運動を推進する。重光は言う。「パリ会議の産物として、これに参加した日本の有力者の間には、日本の革新の必要を主張する者が多くなってきた。その方向は日本の民主化運動であって、永井柳太郎君の如きもその急先鋒であって、後に普選運動の先駆を為すことになった」 第一次世界大戦後の国際的なデモクラシーの潮流は、日本国内のデモクラシー化を促進する。改革の機運は外務省内から日本国内全体へと広がる。
吉田は講和会議をどう視たのか。吉田は講和会議の画期性を認めない。新外交に基づく講和会議で帝国主義は否定されたはずである。ところが否定されたのはドイツの植民地所有であって、旧ドイツ領植民地以外の植民地はそのままだった。国際連盟規約の理念にもかかわらず、人種平等案が通らなかったのは「ちぐはぐな印象を与えた」。吉田にとって欧州大戦後の民族自決原則は、「一時人口に上れる戦争の反動的思想」に過ぎなかった。 吉田は欧州大戦後の国際政治を旧外交の枠組みで理解しようとする。この観点から吉田が重視したのは、日英二国間の同盟関係だった。吉田は講和会議後、一等書記官としてイギリス勤務に赴く。吉田の考えはこの時点では少数派だった。吉田の国際政治理解の枠組みを超える状況が進展したからである。 日本は講和条約に基づいて、中国との間で三東権益の還付を巡る外交交渉を始める。大正11年(1922)2月4日、両国は山東懸案解決条約に調印する。12月には山東からの日本軍全面撤兵が実施される。翌年1月には山東鉄道が中国に引き渡される。山東還付の実現によって、5・4運動は沈静する。代わりに中国ナショナリズムの矛先は日本からイギリスへと向かう。東アジア国際政治にも新外交の潮流が押し寄せていたのである。 |