外交
~人種平等の理念~
 

 国際連盟
ウィルソンの十四ヶ条の一つは、国際連盟の創設である。国際連盟の創設に対して日本は大勢順応の姿勢を取る。講和会議への準備段階では、旧外交の枠組みで考える日本は、国際連盟に対して消極的だった。この消極的な姿勢は、欧州諸国との同盟・協商路線が導いた。対する牧野伸顕は、新外交に基づく対米協調の立場から国際連盟に対して積極的な姿勢に転じようと試みる。アメリカ主導の戦後国際秩序の確立を予見していたからである。
だが牧野といえども、必ずしも手放しでの賛成ではなかった。牧野は国際連盟が各国の主権を拘束するようになるのではないかと懸念した。
「各国と行動をともにしなければならぬ、また、外国に対する義務を負わなければならぬというようなことが、いずれおこるだろう。自ら主権の働きを制約するようなことになっては甚だ面白くない」
牧野が国際連盟の集団安全保障を心配したのだとすれば、それは杞憂に終わった。国際連盟規約は仲裁や司法的解決による紛争の解決と、制裁措置といっても経済制裁を定めるに止めたからである。また国際連盟総会は一国一票制となった。この意味で加盟国の主権の独立は守られたこととなる。
国際連盟の形成過程では、多国間協調の国際機構として国際連盟の創設を目指す米英と対独大同盟にしようとするフランスが対立した。ようやく米英案が採択されると、今度はアメリカ国内で反対が起きた。このような状況にもかかわらず、日本は国際連盟の原加盟国・常任理事国として加盟する。
 人種平等を掲げて
放っておけば、国際連盟は欧米の国際機構になる。このことはあらかじめわかっていた。国際連盟の中で対等の立場を確保する必要があった。日本政府は「人種平等」の理念を掲げる。日本代表団によって、「人種平等」は日米関係を思い浮かべながら出てきた理念である。かつて牧野が外相で珍田が駐米大使だったとき、1913年にカリフォルニア州排日土地法問題が起きた。
アメリカは移民の国である。しかし、19世紀末には開拓すべきフロンティアはなくなっていた。アメリカ人から移民を制限する感情が起こる。他方で20世記になると、日本人移民が増大した。多くは太平洋州の諸州、特にカリフォルニアへの移民だった。日本人移民は勤勉だった。白人にとって日本人は手ごわいライバルになった。日本人は写真だけで結婚相手を選び、アメリカに呼び寄せていた。日本人は異質な他者だった。1913年に主として日本人を対象とするカリフォルニア州での土地所有を制限する法律、カリフォルニア州排日土地法が成立した。アメリカの人種差別に対する日本の反発は強かった。
だからといって国際連盟規約に人種平等条項を盛り込めるかとなると、政府内の議論でも懐疑的な見方があった。人種平等条項はあくまでも外交交渉の手段だった。
難関がアメリカであることは明らかだった。牧野と珍田はアメリカ代表の一人エドワード・マンゲル・ハウスの説得を試みる。ウィルソンの最も有力なブレーンだったハウスは、その場で賛意を示した。翌日、ウィルソンも同意の旨返答を得る。続いてイギリスの説得にも成功する。
米英以上に積極的だったのがフランスである。フランスはアフリカ大陸に広大な植民地を持ち、有色人種を支配している。それなのになぜ賛成したか。牧野は本当かどうかはともかく、フランスの共和国の理念(自由・平等・博愛)によるものと推測した。
 オーストラリアの反発にあう
主要国が賛成である以上、人種平等事項の実現可能性は高まったはずである。ところが牧野たちは思いがけない国からの反対に遭う。白人優位の白豪主義の国、英連邦諸国のオーストラリアである。しかし、思いがけない賛成もあった。山東問題で厳しく対立した中国である。チェコスロバキアのような欧州新興独立国も賛成する。日本は期待するようになった。
このような状況の中で、牧野たちは「人種平等」ではなく「国民平等」に変えて再提案する。「国民平等」ならば民族自決原則になじみやすい。
それでもオーストラリアの反対は強かった。牧野たち日本代表団はあきらめなかった。会議の最終日(4月11日)国際連盟規約の前文に挿入するとの提案に出る。ウィルソンを議長とする16人の会議の投票で決めることになった。賛成11、反対5であった。
反対したポーランドとルーマニアは意外であった。イギリスはオーストラリアに配慮しての反対だった。賛成するはずのアメリカが反対に回ったのは、ウィルソンが次のように表明したことの反映である。ウィルソンはこの結果を受けて、採択には全会一致が望ましいと主張した。結局、人種平等条項は実現しなかった。

 挫折する日本外交
人種平等条項を巡る日本外交は挫折した。国際連盟は欧米の国際機構に過ぎない。戦後国際秩序は欧米中心の国際秩序である。そのような対欧米自主志向が生まれる。近衛文麿「米英本位の平和主義を拝す」は、対欧米自主志向の議論を先取りする。近衛は黄色人種に対する差別的待遇の撤廃を主張して、英米本位ではない国際秩序の自主的な確立を求めた。
もっとも人種平等条項の実現可能性は低く見積もられていた。近衛は、「妄りに国際連盟に反対するものに非ずとも述べている。近衛の「英米本位の平和主義を拝す」の影響力は過大評価すべきではないだろう。近衛はどれほど身分が高くても大学を祖t業したばかりで、西園寺の配慮によって日本代表団に入っていたに過ぎなかった。
欧米から自立した国際秩序の理念を「亜細亜モンロー主義」と呼べば、そのような理念に基づく戦後国際秩序の確立の困難さはあらかじめ指摘されていた。「東京朝日新聞」の政治部記者室伏高信は戦時中の1917年8月3日のコラムで「東亜モンロー主義」を批判している。「亜細亜」は「単に地理的名称」にすぎない。「亜細亜」は人種、風俗、言語、政治、宗教が錯綜している。共通する伝説や歴史、文学、芸術、科学、哲学などもない。「亜細亜モンロー主義」を掲げて中国に対する欧米の干渉を排除しようというのであれば、日本もそうしなければならない。インドがイギリスから独立すべきならば、朝鮮もそうすべきであろう。「亜細亜か亜細亜人の亜細亜」ならば、「南洋は又南洋でなくてはならぬ」室伏は批判する。「亜細亜モンロー主義は、旧思想に非ざれば即ち危険思想である」。
山東権益に執着し南洋諸島の確保を譲らず、朝鮮の独立を認めないとなると、日本が「亜細亜モンロー主義」によって「英米本位の平和主義を拝す」のは難しかった。人種平等事項の挫折後、改めて日本外交は欧米協調を志向していくようになる。




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