外交
~日本と欧米の主張~
 

 日本政府の三大方針
日本政府は講和会議に臨む三大方針を決める。
第一は、日本が直接の利害関係を持つ問題である。具体的には山東問題と南洋諸島問題を指す。対独戦争の結果、獲得した権益は守らなくてはならなかった。
第二は、日本に直接利害のない問題である。これらの問題に対しては、「必要なき限り之に容喙せざると共に、絶えず其の討議の経過に注意し、必要に応じて発言の機会を逸せざることに努むること」とした。
第三は、連合国と利害関係を共通にする問題である。これらの問題に対する基本方針は大勢順応を旨とすることだった。
この三大方針にもかかわらず、第二と第三の方針とは異なる外交の背景があった。欧州新興国の独立問題は第二の問題である。日本が直接かかわる必要はなかった。しかし堀内は下準備を進めていた。牧野も関心を持っていた。牧野はチェコスロバキアのマサリクと「その同僚ベネシュ」を「傑出した人物」で「国際間に信用篤く、正当な意味でのいわゆる国際人だったために、彼らを首領とする独立運動にも世界的な信頼が加わったのである」と肯定的な評価を示している。
第三は、ウィルソンの14ヶ条への対応を意味する。ウィルソンは前年1月、議会で戦後世界秩序に関する14か条の基本原則を表明した。14ヶ条は秘密外交の廃止や民族自決、国際連盟の創設などの新外交の理念を掲げていた。日本政府は同盟を結んでいたイギリスとの協調を重視しながら、個別利益の確保を目指した。
しかし事前の政府の外交調査会では、別の議論があった。政府の方針は「旧式外交」である。世界は「新式外交」へと転換しつつある。そのように批判したのは牧野だった。牧野の主張は政府の基本方針を覆すには至らなかったが、講和外交の交渉過程で生かされることになる。
 欧米の会議
講和会議が始まる。講和会議は欧米の会議だった。フランスのクレマンソーが議長に選ばれたことに議論の余地がなかった。フランスを勝利に導いたクレマンソーの戦争指導力は、講和会議に当然のポストを用意させたからである。イギリスは老獪な政治家のロイド・ジョージ、イタリアは著名な法学者のピットリオ・エマニュエレ・オルランドであった。講和会議は米仏英伊の4か国が主導する欧米の国際会議になった。
対する日本の首席全権は西園寺公望である。西園寺はフランス留学の経験がある。しかし既に70歳に近く、また堀内謙介の見るところ、西園寺は外国語を話すのが億劫で、ほとんど発言しなかった。外国の新聞記者は西園寺の風貌から「スフィンクスみたいだ」と陰口をたたいた。日本は五大国の末席を与えられたに過ぎなかった。それでも日本代表団は、英語に堪能な牧野の珍田の両全権を前面に押し立てて、巻き返しを図る。
 山東問題
日本代表団が最も重視したのは山東問題だった。ドイツの旧山東省権益は青島攻略によって手にしたものである。簡単に手放すことはできなかった。この問題で思い通りにならなければ、講和条約の調印を拒む勢いだった。日本は中国に還付するといっている。反対だったのは中国に対する直接還付である。対する中国側は直接還付で譲らない。ウィルソンは妥協的な案を出す。それは五大国による山東権益の共同管理案であった。
牧野は強く反発する一方で、治外法権の放棄の用意があることを伝える。ウィルソンは日本への無条件譲渡を容認する方向へ転換する。中国は講和条約の調印を拒否した。中国国内では5月4日、天安門広場に集まった学生約3千人が青島奪回などを叫んで、デモ行進を始めた。中国全土に日本品ボイコット運動が広がった。

 南洋諸島問題
南洋諸島問題は山東問題と同じくらい重要だった。日本は赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の割譲を要求した。日本海軍にとって、南洋群島は太平洋における戦略的な拠点になり得る要衝だったからである。
日本側は用意周到だった。講和会議が始まる前に、英仏との秘密協定で領有の承認を取り付けている。旧ドイツ領植民地に対する要求はフランスやオーストラリア、ニュージーランド、南ア連邦も同様だった。日本はこれらの国と同様に旧外交の発想から対応した。
そこへ新外交のアメリカが乗り込んできた。ウィルソンは南洋群島の非武装化と国際連盟委任統治を主張した。ロイド・ジョージが仲裁に入る。委任統治地をABCの三つに分類する。南洋諸島は文明の程度が最も低いCに分類される。C分類の南洋諸島は日本が受任国となることで決着した。




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