外交 ~パリ講和会議~ |
だが翌年、この日露関係が根底から覆る。大正6年(1917)11月、ロシア革命が起きたからである。翌12月から新ソビエト政府は帝政ロシアが結んでいた秘密条約を次々と暴露していく。 こうなると、革命干渉戦争の気運が高まる。欧州大戦の帰趨も定かではなかった。当時の首相寺内正毅は革命干渉戦争に慎重な姿勢を示す。「確かに自分は、ロシア再興のため必要とあれば、出兵を断行することも不可としない。またドイツ勢力東漸の程度危険に迫ると認められるとき、また独露連合の兵の来るときは、断固として出兵の必要があると考える。しかし、この機会に乗じロシア領の一部を占領することは自分の意思ではない」 大正7年(1918)3月、日本政府はシベリア出兵による革命干渉に不参加の旨を明らかにする。そこには対米配慮があった。21ヶ条要求問題の轍は踏まない。アメリカが反対ならば日本も出兵しない、そういうことだった。 しかし8月、日本政府は突如シベリア出兵を宣言する。この方針転換には、アメリカの方針転換が背景にあった。アメリカは7月にそれまでとは一転して、日本に共同出兵を提議してきた。出兵の是非は対米協調の観点から決める。日本はシベリア出兵に踏み切る。 ところがひとたび出兵すると、日本は対米協調から逸脱する。日本は欧州大戦終結後もシベリア出兵を続けたからである。
パリは荒廃していた。華やかなはずの花の都は夕方になると点いている街灯もわずかで、暗闇に近かった。喪服を着た女性が多い。自動車は戦時徴発されて見るのもまれだった。高級料理店の料理はまずく、カフェでコーヒーを飲むには砂糖を持参する必要があった。 そのようなパリで華やかなパレードが始まる。アメリカのウィルソン大統領一行の場所が凱旋門を背にし、シャンゼリゼの大通りをパレードしていく。一行はコンコルド広場に着く。そこには数万人のパリ市民が埋め尽くしていた。 フランス国民は、ドイツとの過酷な戦争を自力で勝つことができず、アメリカの参戦のおかげで何とか勝ったことをわかっていた。敗戦国の首都と見間違うほどの惨状のパリで、粗末な衣服をまとった市民は、フランスに勝利をもたらしたアメリカのウィルソン大統領一行を歓迎した。
日本代表団は珍田捨巳駐英大使、松井慶四郎駐仏大使、伊集院彦吉駐伊大使を全権とするほか多くの外交官がメンバーだった。安達峰一郎は駐ベルギー公使、堀内謙介書記官、重光葵書記官、吉田茂書記官、松岡洋右書記官、芦田均書記官などである。 外交官のメンバーの人瑠の堀内の近衛に対する印象は悪かった。京都帝大を卒業したばかりの青年の近衛がなぜ講和会議に参加できたのか。堀内は西園寺が近衛をかわいがって「俺の随員に入れてやろう」と一存で決めたのだと推測した。 駐英大使館勤務だった堀内は、ロンドンで講和会議の準備を始める。ロンドンではポーランドやユーゴスラビア、チェコスロバキアなどの国が独立を目指して活動していた。彼らの話を聞いておけば講和会議の参考になるだろう。そう考えた堀内は、彼らと何回かあっている。そのうちの一人がチェコスロバキアのベネシュだった。まだ戦時中の前年、チェコスロバキアの独立運動家マサリクが日本を経由してアメリカに亡命した。日本の新聞報道はマザリクを好意的に扱った。それまでどこの国の事だかわからないようなチェコスロバキアの存在が大きくなった。 |