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外交 ~日本参戦~ |
戦争は数か月で終わる、近代兵器の破壊力が短時日のうちに決着をつける、戦争当事国はそう考えた。日本も同じだった。欧州の短期戦に対して、日本は傍観者を決め込んでもよかったはずだ。だが日本は参戦する。 決断を下したのは第二次大隈重信内閣である。外相の加藤高明はイギリスと縁があった。東京大学の一期生で法学部を首席で卒業した加藤は、三菱に入社。イギリス留学後、岩崎弥太郎の長女と結婚、外務省に転じる。加藤はエリート街道をひた走る。駐英公使、外相、駐英大使を経て、四度目の外相就任だった。イギリス経験の豊富な外相と日英同盟の存在は、イギリスの参戦によって日本に決断を促す。 しかし日英同盟には自動参戦義務はない。加藤はそのことを良く分かっており、はじめは対英軍事援助の用意があることを伝えるのみにとどめた。だが次に加藤は青島攻撃に踏み切ろうとする。中国の山東省東部、膠州湾の都市青島は、ドイツが租借していた。加藤は対独参戦したイギリスを加勢する名目で、青島の攻略を目指す。第二次大隈内閣にとって欧州大戦の勃発は千載一遇の好機であった。
参戦に慎重な山県であったが、日英同盟の意義は認めていた。「英国の為に尽くすは当然の事」だった。しかし、「独逸も亦我が親交国たることを忘るべからず」山県は、「今日の味方は明日の敵」「明日の敵は明後日の味方」のような権謀術数の国際政治の中で明治国家の生き残りに力を尽くした。そのような自負は、まるでイギリス人のように参戦を目指す対英一辺倒の加藤への警戒を生んだ。 日英同盟がある以上、参戦はやむを得ない。もんだいは対中国政策と対独配慮だった。山県は心配した。しかし加藤の決意に変わりはなかった。加藤が山県の意見を容れたのは、対独最後通牒の些細な文言の修正にとどめた。日本は8月23日、ドイツに宣戦布告する。 9月2日に山東半島に上陸した日本陸軍は、イギリス軍との連合軍として、膠州湾租借の対中国返還のために、日本がいったん確保することを名目として、青島を攻略する。青島は11月7日に陥落した。他方で日本海軍は、ドイツ領南洋諸島に対してイギリス海軍と共同作戦を展開する。9月末から10月にかけて、瞬く間に赤道以北のドイツ領を占領した。
日本の出遅れ感は否めなかったがそれだけではない。日本は日露戦争で獲得した関東州の租借が1923年に期限満了となる。この租借地を起点とする南満州鉄道の経営期限の満了は1939年である。南満州鉄道と朝鮮鉄道を結ぶ安奉鉄道の期限満了は、それよりももっと早い1923年であった。租借地と鉄道の建言を継続的に確保する。欧州帝国主義国が欧州大戦に忙殺されている間に、日本は中国に対する影響力の獲得競争で巻き返す。 以上の戦略目的の観点から日本は、1915年1月18日に中国へ二十一ヶ条の要求を突きつける。第一号から第五号に及ぶ二十一か条の要求の中で、第一号、第二号、第五号がとくに重要だった。第一号は山東省のドイツ権益に関する事項である。第二号は南満州及び東部内蒙古に関する事項で、租借地と鉄道に直接関連していた。第五号は日本人の政治・財政・軍事顧問の採用を求めている。 中国はアメリカに助けを求めた。アメリカは3月13日にブライアン国務長官が通牒を発する。このブライアン・ノートは、第五号を強く非難しながらも、他の事項には「何ら問題を提起しないこととした」となっている。日本は第五号を削除する。中国は5月9日に受諾を決める。 ところが5月11日、ブライアンはより強い抗議を発する。二度目にブライアン・ノートは中国におけるアメリカの権益を侵害、あるいは中国の門戸開放・領土保全に反する協定に対する不承認宣言だった。アメリカの不承認に直面して、日本外交は孤立に陥る。加藤は8月引責辞任する。 国際政治の変動が始まっていた。イギリスなどの欧州諸国を相手とする伝統的な旧外交の枠組みのほころびが目立つようになった。欧州大戦に対して中立を守っていたアメリカが台頭する。対中国二十一ヶ条要求問題の帰結は、このことの予告だった。 |