外交 ~欧州大戦略史~ |
ヨーロッパでは過去30年間、政治指導者の暗殺事件が頻繁に起きていた。大公暗殺は重大な事件だが、これまでと同様にテロ事件として終わりそうだった。 ところが7月28日、オーストリアがボスニアに宣戦布告した。そしてその戦争はこの二か国間に限定されなかった。ドイツが同盟国のオーストリアを支持する。ロシアはバルカン半島からの勢力後退を食い止めるために、オーストリアと対立していたセルビアに加勢。そのロシアはフランスと同盟していた。 欧州国際政治は表向きの華やかさとは異なり、会議のテーブルの下では権謀術数を展開していた。各国は秘密外交によって軍事同盟・協商関係のネットワークを張り巡らせて、一か国のパワーが優越することを牽制する「勢力均衡」の保持に努めていた。その勢力均衡の下での不安定な平和は、サラエボの銃弾をきっかけに、相互不信がエスカレートして、戦争に変わる。欧州大戦がはじまる。
ベルギー軍はドイツ軍の補給と増援を絶つために鉄道線路を爆破した。ドイツ軍は徒歩での移動を余儀なくされるようになった。ドイツ軍のベルギー侵入の日、イギリスがドイツに宣戦布告した。イギリスの遠征軍はベルギー救援に向かったが、ドイツ軍の進軍を食い止めることはできない。仏英軍は競うかのようにして退却した。 9月5日、ドイツ軍はマルヌ河を渡る。パリはもうすぐそこだった。仏英の連合軍は反攻に出る。戦局は連合軍に有利に傾くようになる。疲れ果てたドイツ軍は、進撃する代わりに穴を掘り、機関銃を据えた。兵隊が塹壕を掘って中に入ったとき、連合軍の進撃は止まった。ここに塹壕戦が始まる。 塹壕戦は大量の砲撃と後方からの援軍が無ければ勝てない。弾薬と兵士が戦場に鉄道で到達するまでには時間がかかった。戦線は膠着した。いくつかの会戦があった。大量の殺戮が行われた。しかし、戦果には乏しかった。 フランス国境に近いベルギーの都市イーペルでは11月、近郊だけで10万人、さらに40万人の犠牲者が出た。塹壕戦では決着がつかなかった。戦争は行き詰っていた。 戦線の膠着状況を打開するために、新兵器が次々と投入される。1915年4月、ドイツ軍は毒ガスを使用した。連合国側も負けじと毒ガスを開発し始めた。毒ガスは諸刃の剣だった。毒ガスは自軍にも流れて、影響を及ぼしたからである。ほどなくして両軍は防毒マスクを着けるようになる。面倒な防毒ガスを着けた歩兵隊の進軍は鈍った。毒ガス兵器では戦線の膠着を突破するどころか、余計に膠着状態が続くことになった。 イギリスは戦車を生み出した。1916年に数台が準備不足のまま実戦に配備された。イギリスは前年、ドイツ軍の爆撃を受けていた。飛行船ツエッペリンによる空襲だった。イギリスは戦闘機で応戦した。機動力に勝る戦闘機にとって飛行船を打ち落とすのは難しくなかった。ドイツは代わりに飛行機で爆撃するようになる。
あらゆる最新兵器が投入された塹壕戦は、目的が何かを見失わせ、戦争のための戦争の惨状を呈するようになった。なかでも1916年2月から始まったヴェルダンの戦いは、1分間に1人の割合で兵士が犠牲になった。フランス軍の歩兵はベルダンを「大きな挽肉機」と呼んだ。ヴェルダンに到着した兵士が塹壕に入ったとき、そこは「引き裂かれた人間の肉の大きな山」になっていた。 6月末の段階で、フランス軍31万5千人、ドイツ軍28万1千の死傷者がでた。何故ヴェルダンを死守しなくてはならないのか、両軍にもわからなくなっていた。戦うことが自己目的化していた。 勝敗不明のままヴェルダンの戦いは収まる。他方で今度は7月からソンムの戦いが始まる。ソンムの戦いでは戦車が実戦配備された。大砲、弾薬、銃が大量に集められた。野営地は軍用車が行きかっていた。鉄道すら敷かれた。それでもイギリス軍は勝てなかった。7月1日の一日だけで死傷者6万人、そのうち戦死者2万人の記録的な犠牲を出した。対するドイツも敗退を重ねた。 ソンムの戦いによって、欧州の人々は戦争が永久に続くと覚悟した。 |