対外政策の変遷 ~天保薪水令~ |
このまま強硬な打払い令をベースにした文政令を堅持すれば、中国と同じ目に遭いかねない。鎖国政策が外洋船の建造・所有を禁じており、幕府には軍艦がない。中国での水運ルート封鎖を「他山の石」とし、「自国之戒」と読み換えた。 幕府は天保薪水令に転換した。発砲せず、必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。公布は1842年8月28日、アヘン戦争に清朝が敗北し、南京条約が結ばれる1日前である。幕府が積極的(与えられた範囲内ではあるが)に海外情報を収集し、それらを分析し、政策へ反映させた結果である。
この頃からアメリカ船の来航が急増する。1845年、漂流日本人を救出・送還するために、浦賀にアメリカ捕鯨船マンハッタン号が来た。次いで1846年、浦賀沖に米国東インド艦隊(帆船2隻)のビッドル提督が来航。これがアメリカの最初の公式使節である。1849年、アメリカ漂流民救出を目的としてグリン艦長が長崎に来航した。これらの問題はいずれも円満に解決し、親米論が支配的になった。
幕府にとって与しやすいのは、友好的な「新興国」である。さらに幕府は、国際法の論理を、ほぼ完全に理解していた。それは、最初の条約が有利であれば後続条約にも有利性が継承され、不利であれば不利性が継承される、という「最恵国待遇」の論理である。したがって、最初の条約国の選択は決定的に重要であった。 |