対外政策の変遷
 ~天保薪水令~
 


 薪水令に転換
老中水野忠邦は、イギリス軍の行動を物資運搬ルートの封鎖と読み、日本に置き換えた。江戸は廻船による大量の物資搬入で維持されている一大消費都市である。人口は百万を超え、廻船による物資は全消費量の六割以上と推計される。江戸湾が最も狭くなる観音崎―富津間で、敵艦が一隻でも封鎖活動に出れば、廻船は江戸に入る事ができなくなる。
このまま強硬な打払い令をベースにした文政令を堅持すれば、中国と同じ目に遭いかねない。鎖国政策が外洋船の建造・所有を禁じており、幕府には軍艦がない。中国での水運ルート封鎖を「他山の石」とし、「自国之戒」と読み換えた。
幕府は天保薪水令に転換した。発砲せず、必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。公布は1842年8月28日、アヘン戦争に清朝が敗北し、南京条約が結ばれる1日前である。幕府が積極的(与えられた範囲内ではあるが)に海外情報を収集し、それらを分析し、政策へ反映させた結果である。
アメリカ船来る
次いで1844年、オランダ国王から書簡が来た。天保薪水令への切り替えだけでは不十分で、いずれは開国・開港を求めて外国船が来る。対外政策を変更すべきという趣旨である。
この頃からアメリカ船の来航が急増する。1845年、漂流日本人を救出・送還するために、浦賀にアメリカ捕鯨船マンハッタン号が来た。次いで1846年、浦賀沖に米国東インド艦隊(帆船2隻)のビッドル提督が来航。これがアメリカの最初の公式使節である。1849年、アメリカ漂流民救出を目的としてグリン艦長が長崎に来航した。これらの問題はいずれも円満に解決し、親米論が支配的になった。
新興国への友好を図る
上記のような経験から、幕府の対外観は導き出された。また当時の国際政治を良く見据えた判断でもあった。超大国イギリスは世界の派遣を担い、戦争を仕掛け、各地に植民地を獲得。その一環として日本を視野に入れていた。それに対して、アメリカとロシアは「新興国」であり、まだ体系的な世界戦略を確立していなかった。
幕府にとって与しやすいのは、友好的な「新興国」である。さらに幕府は、国際法の論理を、ほぼ完全に理解していた。それは、最初の条約が有利であれば後続条約にも有利性が継承され、不利であれば不利性が継承される、という「最恵国待遇」の論理である。したがって、最初の条約国の選択は決定的に重要であった。





TOPページへ BACKします